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2009年1月

2009年1月31日 (土)

非モテという言葉の意味

前回の非モテネタ、意外と身内に反応があって
そしてそれは賛成意見じゃなくて、結果いろいろな人からたしなめを受けることになった
後藤がその中でも驚いたのは同じ非モテ派の人が後藤のブログを読んで
「だめだこいつ、はやくなんとかしないと
って思ったことで
その中のひとりがモテる人の金言を聞くべきだと面白い音声を教えてくれた

↓非モテの皆様、このラジオの1月14日、21日の音声を聞いてください
http://www.tbsradio.jp/elekata/rss.xml
(下に書いた定義だと不モテの芸人さんの反応が最高です)

とは言っても、この音声を聞いて

('Д')q これで勝てる!!

って思った人は非モテではないわけで、真の非モテは

(´ゝ`)めんどくさい、こんなにガンバらないといけないなら(女性優位に従わないといけないなら)このままでいいや

というのが、真の非モテなのであります


言葉の意味で説明しましょう

まず非モテというのは
無モテでも不モテでも未モテでもなく否定語として非を使われている言葉です

では、無モテという言葉から考えていきます
無モテの無は無いという意味で存在しないという意味に近いです
つまりそれは

あのさー、モテるとモテないとかさーどうでもよくねぇ?関係ないじゃん

の関係無いの無だと思ってよいと思われます
つまり、無モテという表現があるとしたらそれは
この問題はモテるモテないという事とは無関係である
の無ということになります
(正確には上にも書きましたがモテるという概念は存在し無いの無、既婚者やリア充や老境に達した人の多くがこの部類に入ります(それでも盛んな方は例外なので含みませんが)、因みに非モテ批判で後藤を凹ませた宇野常寛さんはこの部類に属します)

ではつぎ、もしこれが不モテだとどうなるのか
不はつまり出来ずの不であります
無能が能が無いことを意味するのであれば
不能は行動不能が表すように可能であるはずのものが何らかの理由で出来ない状態を指します
ということは

俺って、全然モテないんだよねー

が不モテであります。そしてこれは普通の大半の一般人の思うところであり
後に記しますが非モテとは同じようであって雲泥の彼岸を越えた越えないの差がある、むしろ凡庸な考えとなります

そして、一応、未モテですが
これは、いまだモテずの未で
つまり

そろそろ時期が来るはずなんだけど、未だモテ期はこないんだよねー

となります(もしくは若すぎてとかも可)

しかし!だがしかし!非モテは彼岸を越えてしまった人の言葉なのです
非はあらずの非
つまり、これは

問題は色々あるが、私にとっての問題はモテるモテないにはあらず

という、思考そのものが一般から離脱してしまった人たちを指します
さらに言うと、これはモテるモテないという枠の中に居ないことを指す言葉で
人を非モテという枠組みで語るときそれは

彼らはモテるとかモテないとかそういう次元の話ではない(話にはあらず)
(モテるモテないとかってみんな重要性を持って語っているけど、本当にそんなに重要なの問題(メタ恋愛論?)

となります

この話は
地球の人口が増え続けて困っている昨今、自分から繁殖行動をやめる種族が現れたのは必然である
と書くとかっこいいですが、残念ながら違うそうで
女性が学歴をつけ社会進出が進むと晩婚化が進むというのが統計的データなのだそうです
(どうでもいい話)

とりあえず後藤は、非モテ問題は女性優位の恋愛意識に問題があると思いますが
(男性は肉体的束縛により、女性に対しはじめから不利な状態にある(切り札は相手が持っている状態からはじまる)。そのため構造上、女性は受け手であり積極性は男の責任であり、それを持つことが出来ない男性は土俵に乗ることは出来ない)
それはそれでどうでもいいやと思っています(さすが非モテ)

つまり、非モテ問題は女性優位の恋愛意識に対するダメ人間たちの逆襲なのであります
(何もしなくても女性は言い寄られると思っていたら間違いだぜ!という反逆をするハイレベルなダメ人間思考(そして誰もいなくなった…、というオチが待っていますので)

@ちなみに、後藤以外の非モテな人々はすっぱい葡萄現象とか関係なく非モテから脱する機会があるならば脱することをお勧めします
後藤がこの状態にいるもっとも大きな理由はお金がないからです
(正確には労働時間を削り自由な行動時間に割り当てたい(より正確には恋愛に投資する金を稼ぐ時間を自分の時間に割り当てたい)
他の非モテの特にまだ二十代の方は機会があったら脱するべきでしょう
少なくとも周りにいる同年代の人たちは様々な絶望感故に非モテを選んだ人たちばかりで
(他者との関係は負担がつきもので、天秤にかけた結果そちらを優先している人々。因みに勘違いされている方が多いですが非モテは二次元コンプレックスの人々に限った話ではなく。その多くは恋愛放棄主義者によって構成されています)
その絶望感なしに非モテは選ばない方がよいかと思われます

('Д')ノ それでは諸君、健闘を祈る!(何だそのオチは)

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2009年1月29日 (木)

痛い後藤と東工大のシンポジウム

方々で知り合った人に会い、ブログ読んでますと言われるとここ最近はとても申し訳ない気持ちになる
それは数ヶ月前からクオリティが下がっている事に書いている本人が気がついているからだ
理由はいくつかあって、その一番の理由は想定読者を固められていないことだと思う
今、自分が書けること書くべきこと、言葉が届く相手、伝えるべきこと
早稲田の文学シンポジウムというものがニコニコ動画にあげられていて
そこで東浩紀さまは誰にでも届く言葉は存在しない、それは3歳の子供と80歳の老人の両方が理解できる言葉があるかと考えると分かる。双方に理解できる物は挨拶くらいしか無く、そういう意味で伝えるときは人は伝える相手を限定しなくてはならないという事を言っていた
その言葉が身にしみる、今、自分はこのブログで書くべき事と伝える相手の想定の枠組みが揺らいだままになっている

水曜日、東工大のシンポジウムに行く
10分前にはついたのだけど、本会場はその時点で満員になっていてあらかじめ用意されていた第二会場でスクリーンに中継される映像と音でシンポジウムを聞くという残念な結果になったのだが
そのおかげで珍しい人と再会することができた
小説塾の石川さんの対談で知り合ったW大の文学部のUさんとH君だ
シンポジウムは後藤が専門用語の理解と思考法に慣れていないので理解できない箇所が多かったけども
ネットは自然的で、ならばネットの災害は自然災害に似ているという理論は整合性はわからないけどもとても興味深かった
この考えはネットの良い部分悪い部分に対して新しい視点を与え対策にも新たな姿勢で臨めるようになるのではないかと思う

残念なことに途中45分ほど中継がとぎれてしまい聞けない部分があったが
無料で聞けた割には収穫は大きかった気がする
終了後、UさんとH君と喫茶店に入り小一時間無駄話をする
自分たちはまじめに勉強しなかったので修士にはいけなかったと言う四年生で留年確定の二人
しかし、二人ともすばらしい向学意欲を持ち、好奇心を持ち、考えることを日常生活でも行っているであろう二人が
士にいけなかったとは
勉強不足が原因なのではなく目標と行動とのかみ合わせがうまくいかなかった性だと思うのだが
その辺については大学に行っていない後藤にはよく分からなかった
Uさんは就職活動もうまくいっていないらしく、悩んでいたが
未だ向学意欲は衰えを知らぬようで、親も賛成してくれているなら
一年かけて修士に入る勉強することも選択肢としてありなのではないだろうか思った

そして話はかわり残念な話になるが
後藤は非モテ話をネタとして使わなければ報われないので
毎度、読まされる方はうんざりするかもしれないけどもそれはしょうがないのでお目こぼしをいただくとして

帰り際、Uさんに就職活動うまくいっていないのでアドバイスを下さいと言われ
それって何でも言って良いの?と聞いたら、実際に役に立つアドバイスがほしいんですと言われたので
後藤は・・・・

(’Д’)Uさんって勝っている女の顔をしていないよね、面接官はそれに気がついてるんじゃない?
(だから他の女の子に枠をとられちゃうんじゃない?という意)

という事をマジで言ったらマジで切れられました
(後藤の非モテステータスには口に出すその瞬間までこの台詞がホームランだとおもってしまう呪いがかかっているのです)
相手がフェミニストだったならば後藤は無事では済まなかったでしょう
去り際の出来事という事が幸いだったと思います
(おかげで今日も後藤は健康で元気です)

今回思ったことは後藤は非モテの女神に愛されていて現実に女性が近寄ってこようものなら
自動的に嫌われるプログラムが無意識に組み込まれてしまっているのだなぁという事で
毎度の事ながら強い定め的な物を感じるのでした

PS、東浩紀さま関連の音声をニコニコ動画で聞いていると宇野常寛さんというゼロ年代の想像力という結構評価の高い本を書いている人がレイプファンタジーなる理論を掲げて非モテ批判をしているそうで、悔しいから読んでみようと思って今日アマゾンで注文しました
とりあえず、現時点でALIVE2ですっぱい葡萄現象といっている件についての反論ですが
その理論は
恋愛を肉体的体験と精神的体験ととらえるとしたら
人は本質的に(この場合ほとんど男に限定)肉体的経験の方が優位であり、それは逆らえない遺伝子的なものだと言っているように思えますが
様々なオタクを見てきた後藤からすると
肉体的経験の充足よりも精神的経験の充足の方を大事にする人たちが居て
事実、肉体的経験に向かう際に傷がつくことを避けられない人たちが居て
そう言う人たちがその方向性に向かうことは後藤は否定できないと思いました
宇野さんはそれをいじけているすっぱい葡萄現象といい
ラブワゴンのらないか?(やらないか?みたいな言葉だ)と言っていますが
ラブワゴンに乗るためには人間的変化が必要でそれは個人を排除する独裁的な考えにも思えるのですが
その辺はどうなのでしょう、非モテのすべての人たちがラブワゴンにのりノウハウを学べば
幻想から解き放たれ充足を得られるのでしょうか
少なくとも二十代の性欲が強く肉体的経験に勝てない人たちはその力に勝てないかもしれませんが
彼らがそのまま三十半ばを迎えたころ精神的経験を求めて内にこもることは合理的にも思えてしまいます
それを後藤はもてる者の優越ではないですが、モテる者の想像力不足と思ってしまいます
(というか男性にしか変革を求めない姿勢には何かやばい差別思想が眠っている気がしますが後藤にはそこまでの分析力はないので書けませぬ)

追記がずいぶん長くなってしまいましたしかなり痛いですが、今回はこの辺で

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2009年1月26日 (月)

雑記

もう少しだけ、集中力と努力の失敗を怖れない心がほしい
現時点でそれ以外の必要な物はそろった気がする
でも、最後のクオリティーを決めるその部分が欠けているとなると何をしてもどうにもならない
後、二ヶ月は辛抱の月が続く
結果を信じるとはどうすればできるようになるのだろう
見えないことは足をすくませる
自分がどこにいるのか、ボーダーラインはどの辺りにあるのか
結局知りたいのはそこなのだが、それが未だに検討もつがず
知るすべも分からない

冬は本当に嫌な季節だ

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2009年1月25日 (日)

お金、お金(ホントのホントにどうでもいい話)

西原理恵子閣下が、日曜の朝っぱらから金金いっていた
やはり世の中お金よね~

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2009年1月24日 (土)

少しだけ雑記

葉っぱさまのブログをお勧めブログに追加させていただきました
いつも読んでいて参考にさせてもらっています

最近、有名ブロガーの方々が誹謗、中傷的な(実際に悪いか悪くないかの真偽はできないので)
コメントに参ってしまって、ブログのモチベーションだけならまだしもリアルでの調子も乱したりしているというのをネットで良く見かける
もうこうなってしまうと、その行為はハラスメント行為として罪の対象になるのではないかと思うのだが
現存の法律ではそれを取り締まることができないのだろうか
優秀な人のパフォーマンスを下げるのはとても痛手なのでどうにかしてほしいのだが
権力の乱用につながる場合があるので行使できないのだろうか
別に、それが2chのコミュニティなら多くの人に免疫ができていてどうでも良いけれど
それが自身のブログとなると問題は別になる
自分が、少なくとも意欲を込めて書いた文章のすぐ後に批判が一方的に書かれたら
心身ともに参ってしまうのはしょうがないと思う

どうにかなってくれないものか
コメントを消せばいいという話もあるけども
そういういたちごっこでどうにかなる話なのだろうか
後藤はある程度の法整備が必要だと思う

追記、東浩紀さまのブログもお勧めブログに追加させていただきました

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2009年1月23日 (金)

雑記と万葉の話

基本的に人の話をウノミーにする性質があるので、マイブーム的な思想話を展開すると大体身内の面々におしかりを受ける後藤
そんな後藤は今、東浩紀さまがマイブームなのだけど
それを名前は伏せるけど友達に話したら、根拠もないことをもっともらしく語る人って嫌いって言われた
そんな友達は内田樹さまも同様の理由で嫌いらしく
面白かったのは、その根拠もなくもっともらしく語る人たちって
ちょっと前にはやったオカルト系占い師とまったく文体というか論法が一緒じゃないかって言われたことで
おー、ちゃんと疑いの目をもって読むとそう思えるのかと感動したけど

内田樹さまは後藤よりも頭の良さと知識の量が生きている時間と素質含めてダブルスコアじゃなくて桁違いに高いので
たぶん、この人の言っていることの後ろには沢山の知識と思想と誰かと語り合った痕跡があるなと思ったからそれはそれでいいであります
(ラジオデイズの対談とかすごく面白いし、それにしても釈和尚は何言ってるかわからないことを言いすぎて面白すぎる(霊的裁きとか全然わからない)

で、東浩紀さまは今回ゲーム的リアリズムの誕生を読んでぶっ飛んだ
その理由はこの人はオタクを語るために、オタク的なメディアに自らどっぷっりと使っているというところで
正直、オタクメディアの作品は玉石混合というか、良いものはジャンル関係なく秀逸だけど
だめなものは何でか知らないけど、ジャンルとは別に全然だめなものがあって
その中から良いものを広い、批評しようと、つまり穴の無いように見渡そうとすると
とてもじゃないけど気が狂う作業が必要になる
それをメインの思想を考えながら活動しているわけだから
オタク文化の住人としては頭が下がるわけで
そして、オタクな後藤はその文章を読んで目から鱗が落ちるわけで
とても驚きなのであります

そして、最近思うのはこういう頭のいい人たちをみていると
自分は批評には向いてないなぁとつくづく思うわけで
前にそういうことばかり書いていたら友達にそんなことをネタに文章を書くなみたいなことを言われたけど
結構、これって後藤的に切実な問題

つまり、後藤は考えたいのに考える能力がないのであります

しかも、潜在的に足りない
これってどうしようもないことで、凄く困るのだけども
幸い、自分の志すものがむしろ考えたり狙ったりしたら失敗することが多いと言われるジャンルなだけに
器用貧乏にならなくてよかったかなとも思いまする
(昔、松本人志さまがラジオで、俺の笑いを見ろって意気込んだら絶対に面白いことは起こらない(笑いの神は降りない)って確信をもって語っていたけど。クリエイティブって偶然に最後はどうしても偶然に頼るというか賭ける部分が強いと思う)

そして久々にまともな文章を書こうと意気込んでは見たものの今日も雑記になったわけで
書き終わってみて自分でも面白いのかつまらないのかわからない
でも、これってエントロピーを整理する作業だからこのぬるさで良いのかもしれないとも思いつつ
何かの間違いで読んでしまった人には申し訳ないと思いつつ
この辺で終了

そういえば、NHKの朝の漢詩紀行が終わって万葉集のコーナーが始まったのだけども
これがたまらん、正直、後藤の好みはあまり恋愛の歌にはないのだけども
他の当時でしか読めない歌とかがすこぶる良くてついつい聞き入ってしまったりします
そんな、最近感動した詩

↓原文らしい、万葉仮名なので意味がわからない
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都

大和には 群山あれど
(群山=むらやま)

とりよろふ 天の香具山
(天の香具山=あめのかぐやま)

登り立ち 国見をすれば
(国見=くにみ)

国原は 煙立ち立つ
(国原=くにはら、煙=けぶり)

海原は 鴎立ち立つ
(海原=うなはら、鴎=かまめ)

うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
(蜻蛉島=あきづしま)


作者は舒明天皇(じょめいてんのう)、万葉では当たり前のように沢山収録されてますが
時の君主の名作が残っているというのがまず、貴重で凄いことだと思います
言うまでもなく、天皇になった(当時は今と制度は違いましたが)人の心をうかがい知ることなんて
こういう作品でもなければわからないと思います

意訳
(香具山からは海が見えないので解釈がいろいろあるようですが、ここでは強引に現代語に訳します)

大和には山々あるが

とりわけて、天の香具山

登立ち、国をみやれば

国の原は煙が立ち立ち

海原は鴎が立ち立つ

見事なものだ 秋津島 やまとの国は


・・・、難しいですね。現段階ではこれが後藤の限界です
補足としては、当時、天皇は香具山の山頂に神社があってそこに立ち国見をする儀礼があったそうです
(ちょっと資料不足なので間違っているかもしれません)

あと秋津島はやまとの枕詞として使われるそうで意味は本州の意味だそうです
煙立ち立つは米を炊く釜の煙と想像すると、農耕民族の風合いが現れてきます
海原は香具山からは海が見えないので、湖の水鳥のことであるとかの説もありますが
天皇が国を見ながら日本の国土を思ったと解釈する方が面白いと後藤は思います

君主が平和な自国を穏やかに眺めているという詩は
文学史上とても希です
漢詩の堯舜を思い出しますが
(堯舜が神話という話もありますが、それはそれとして)
これは古代の人の環境でないと生まれにくい問題なのかもしれません
(こういう作品を読むと、人は悲しみに酔いやすいと言うことを考えてしまいます)

確か、後藤の知識では万葉はまだ漢文学の輸入が本格的に行われていない頃なので
黎明期として興味深い作品が多いです
たとえば、楚辞の宋玉が初めて秋を憂いを持って感じたと言われていますが
(農耕民族にとって秋は収穫祭)
万葉にはまだその文化は輸入されていないのだそうです
(この辺も知識不足なので間違っていたら申し訳ないです)

雑記がずいぶん、長くなってしまいましたが今回はこの辺で

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2009年1月20日 (火)

かぼちゃの神様

箒を持てば奴隷

客として金を使えば神様になる

かじかんだ手で街中を箒で掃くけれど

私のことを美しいと思うもの人はどれほどにいてくれるのだろう

きっと私も、路上の汚れた紙くずのように汚れ物の一部とみられているのでしょうか

私はいつも街では表へ顔を出してはいけない奴隷よう


客になれば神様になれる

金さえ使えば人はどんな無理難題でも一度聞こうとしてくれる

私はまた僅かなお金をその日の感情で使い切る

けれど金の使えない日は私は表へ出られない

その日は私は神様になれないから


真冬なのでかぼちゃを買いました

スーパーで今日食べると縁起がいいと言われました

珍しく今日、私は綺麗と言ってもらえました

下手な煮付けをインターネットで調べながら作っています

暦の上ではこれから暖かくなるのだそうです

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2009年1月19日 (月)

変わるなの意味

やっと最近になって内田樹さまがずっと言い続けている変わるなの意味がわかった
現在の政治的変革を求める人たちの熱は明らかに異常だ
それに比べて、現在、100年に一度の危機が訪れているという割には
人々に政治的関心がない
結論は結局、未だ日本は平和なのであって一部の声に先導されるのは危険だということなのだろうと思う

土曜日、ユングのヨブへの答えの読書会第三回
今回のレジュメは後藤が担当で、そういうことは今までやったこともなかったので
とりあえず、原文をわかりやすく引き抜いて、難しそうな言葉の意味だけ辞書から調べたレジュメを作ったら
何とか、メンバーの協力もあり思考がよい場所に飛躍した
ある意味、原文をみながらみんなで考えるという読書会という言葉にふさわしい会になった
ので、レジュメ担当としてはひと安心

↓そのレジュメ、メンバーからの要望があったのでUPします
「dokusyokai.doc」をダウンロード

その後、メンバーと軽く飲んで話をする
そこに後藤が呼んだ、ジョジョ的な小説を書きたいというMさん登場
相変わらずメンバーの誰とも違う視点でものを語ってくれて刺激になる

後藤が
「女性が主人公のものって書けないんですけど、どうすればいいですか?
と聞くと
「でも後藤さんは腐女子なら書けるでしょう
とずばっと切り替えされる
確かに、そこなら間違いなく書ける
それから、いろいろな会話をする

そういえば、少し前、ドラッグの話をMさんとしたときに
ジャズオババがその意見に対し貴重な発言をしてくれたので書いておきます

確かに、ビートルズの人たちはドラッグをやっていて曲も書けていた
その中にドラッグの力を使って書いたであろう作品もある
しかし、自分は70年代のニューヨークでJAZZをしていて
曲を作るためにドラッグにおぼれてしんでいった人たちを沢山みてきた
だから、ドラッグの力で作品を書くのは間違っている、ビートルズは例外に当たるのです

さすが実際に自らの目で見てきた人の言葉は重みが違う
その辺については深く反省した

 
そろそろ、冬も半分は終わっただろうか
毎日寒く、風邪を引いている人をあちらこちらで見る
桜は寒いほどに鮮やかさを増すというが、人間は寒さを体験してもハードが弱るだけとしか思えず
閉口する毎日

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2009年1月18日 (日)

混乱中

私信ですが、どうしてもemobilが欲しくて携帯変えました
そして前の携帯を電話帳まだ写してないのに解約しました
連絡はまだ身内のみなさんには届いてないと思います
ご迷惑をかけるかもですがご了承下さい

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2009年1月15日 (木)

えんとろぴー縮小の法則

今日はただの愚痴

ここ数日間、ろくな事を考えてなかったので
いざ、思いっきり頭を働かせなければいけなくなったという時に頭が働かない
みざる、きかざる、はたらかざる

ただ今、ラジオデイズのコンテンツが面白いおかげで何とか知識を吸収しているが
すぐにゲームにはまるし
ガンダムがつまらないと友達とマジギレしてるし
酷いありさまだが
これが、後藤流のエントロピー収縮の法則なのか!
だって養老先生もマンガとゲーム好きだし!
と思ったり思わなかったり

読まず嫌いだったのだけど
東浩紀さまのゲーム的リアリズムの誕生を読みはじめたら
オタクの分析していて面白くてタマラン

とりあえず、もっと頭働いて、作業効率よ上がってクレクレ

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2009年1月14日 (水)

短いどうでもいい話

色々と書きたいことはあるのだけども、まとめることが出来ない
現在、ドタバタと作業を繰り返している所でまだまだ先は長く
今年上半期をどうやりくりするかがかなりの勝負所なので、そこを何とかしたいとは思っているが
さて、どうなるのか

最近思うのは前衛的というものはその前衛的というものに固執するとむしろ保守的な態度になのではないかと言うことで
それは本当に恐ろしい落とし穴に思える
だから、今年はゆるさを目標にしていこうかと思っていて
そお柔軟性がきっと大事なのだろうと思う

去年も書いただろうけども後藤は寒いと身体のモチベーションが下がるのでとても難儀している
世の中にはスキー好きな人たちとかは年中冬を待ち遠しにしているらしいが
やはり、全然分からない
寒さとは死をイメージする
真冬の真夜中、もしくは早朝にバイクを走らせると良く分る
この無慈悲な極寒の世界は死の領域を思わせる
そう考えると、昔の人は大変だったんだなとも思う
防寒具などろくな物がないだろうし、長屋ではすきま風が通っているだろうし・・・

という今回はどうでもいい話

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2009年1月11日 (日)

まことに申し訳ないくらいにどうでもいい話

今回は本当にどうでもいい話なのでご注意下さい

↓まず、この動画を見て下さい

何故、ダメ人間ネタが、働かないネタがはやるのか
その理由についてずっと考えていて、最近一つの結論にたどり着いたので今日はその話

結論、やはり「働いたら負けだと思っている」という発言は現代人に衝撃的だった
何で、あの発言者のような見るからにダメな人間を見て多くの人が怒りを覚えたのか
本来なら一笑に付したり、逆にあまりの酷い有様に哀れんだりするのが
正常な人間な思考だと思うのだが
あの発言を聞いた現代人の殆どが「ふざけるな!」と怒りを露わにした
これはよくよく考えると大変おかしな思考の結果となる

その思考とは働くことの否定を間違いと相手にしないことではなく
正しいと同意しながら実現できない自分というものがあっての怒り
つまり、
「そんな事知ってるが、出来ないんだよ!
という思考の結果になる
この思考をすると言うことがどれ程危険なことか分かるだろうか
これは世の中には労働という物はタダの苦痛で不幸を感じさせる物だと言うことが
殆どの人に同意署名されているということになるであろうと思う

まず、折角なのでウィキペディアを参照します
↓ウィキペディアから
労働(ろうどう)とは、人間が道具を用いて対象にはたらきかけ、人間にとって有用で価値のあるものをつくりだす行為である。
また、商品としての労働力は、肉体や頭脳を提供する代わりに、賃金を得る行動であるとも定義される。賃金を得ない活動はボランティアと呼ばれる。

まず、ここで一つの疑問。ボランティアも広く労働とする場合
果たして、ボランティアの活動家は労働を苦痛や不幸を感じさせる物と思っているだろうか

↓更にもう一つウィキペディアから
労働と宗教
旧約聖書によれば、労働とはアダムとイブが罰として神より与えられたものであるという。キリスト教ではこの解釈をそのまま捉えているが、ユダヤ教では労働は神から命じられた神聖な行為と考えられている。同様に日本の古事記でも高天原では神々が労働をしていたとあり、従って人々の労働も神の行った神聖な行為と同等と考えられていた。これらを「労働懲罰説・神事説」といったように呼称することもある。このことが労働意識の差に繋がっていると主張するものもいる。

どうやら、キリスト教的価値観によると、労働は生まれながら背負わされる罰であるという考えが主流のようだ
後藤はこの古代作られた罰の価値観を
人間が生まれ持っている負担は罰であり背負わねばならない物だと認識しなければとてもじゃないが受け入れがたい
ので、生まれたと考えるので
昔のオリエントの人々は生きることはどちらかというと負担であると考えていたと解釈できる


 
さて、更に現代の消費文化は行為に対価を見出そうとし
対価のない行動を無価値とすることが多い
それにより、個人的な学習は後に自分の力になる可能性があるとしても
数字化は不可能なので他の行動に比べ優先順位が低くなる
後藤はそれを近年、学習は脳が機能的に求める行為だという理論を世間に定着させた茂木健一郎さまの功績は多大な物があると思うが
とりあえず、それはそうとして対価のない行為は現代では無価値になる

そして、やはり考えるにこれはとても怖い
行動は対価があるからするのであって、それ以外の自己完結的な行動は無価値になるという思考が
完全に定着してしまった

そもそも、人間は価値を相対的にしか、つまり何かと比べることでしか生み出せない生き物で
自分の中の喜びという物を中々見つけられない生き物だ

・・・やばい、どうでもいい話なんだからそろそろ切り上げないと
電車の中で携帯で見ている人たちが参ってしまう

結論を急ぐと、世の中歩いてると少数だが働くことが楽しい人たちがいる
それはエコノミックアニマルという揶揄ではなく、対価よりも行為を楽しんでいる人たちだ
その人たちから見れば、働きたくないっていう人はそれこそ愚かで

「何?働くことの楽しさを知らないのか!ならウチに来なさい

とまではいかないかもしれないが、そのくらいの勢いの良さで働いている
ちょっと視点を変えると

「食事って、燃料を補給するだけだよ
って物の見方をグルメな人が知ってビックリする様な感じで
うちの弟なんか食事がまずかったら餓死しかける位の変人だが
(スペインに留学したときあまりに食べ物がまずいから三日三晩なにも口にしなかったら死にかけたらしい・・・)

働くことも、行為自体は多様なのだし、受け手も多様なのだから
単純に全てが苦痛と定義するのは間違っていて
何でこんな理論がまかり通るのかというと
やはり、学生時分のアルバイトが過酷な状況で働かされることが多いからだと思う
(が、この話は今回はシマセン)

最後に、童話、アリとキリギリスの話
アリとキリギリスのアリはせっせと働いていて
冬になって食料のないキリギリスに蓄えを分けてしまうから
アリは働き損って受け取られるかもしれないが
むしろ、これはアリが働くという行為に(そのキャラクターに)誇りを持っていて
対価である商品にはそれほど興味がないのが素晴らしいし幸福であるなと思う

いうなれば労働とはそうしてするものであると思う
(後藤のようなろくに働かない人間が発すると反論も多いかもしれないけども)

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2009年1月 8日 (木)

タイトルの支配力 後

どうしたんだろう、頭がおかしい
(ごめんなさい、みなさんいつもはこうではないんです)
前回のブログを読み返してみたのだけれど、自分でも何を書いているのか
何が書きたくてこんな事を書いているのかさっぱり分からない
文体も歪んでいる気がする
確かに、後藤は風邪を引いた。頭の中がいつも以上にボンヤリしている
だからといって、あの怪文書は何なのだろう・・・

こんばんは、後藤ゆたかです。今回は前回の続きを書くべくやって来ました

まず、ガボさまの物語の作り方の面白いところは
数人の生徒が一つの物語に向けて試行錯誤しているところで
おそらく、物語を作るにはこの複数の視点からの意見を頭の中に持たなければならないのだと思います
よく、優れた小説家の頭の中には素晴らしい書き手と素晴らしい読み手の二人がいると言われますが
この話はまさにそれです
どれだけ、より多くの客観的視点を持つことが出来
そしてそれをまとめるガボさま役の人を頭の中に置いておき
生徒達が口論しあうような大混乱を頭の中に展開しつつも物語を練り続けられるのか
これが、今回後藤が思った事で、そして当面の目標です

とりあえず今回はプロットの話をしようかと思います

現代小説がアバンギャルドな時代に入った辺りから
しきりにプロットに頼るなとかプロットを無視しろとかの言葉を良く聞きます
後藤はそれをずっとそういうものなのだと思っていたのですが
ここ最近、どうやら勘違いしていたようだと感覚的に思うようになりました

後藤としての結論はこうです
プロットは設計図で無いと話にならないが
でも小説は生もの、言い過ぎると演じる物なので
建造物と違い固定した完成体になるものと思ってはいけません
という事です

あまりやりすぎると、自分でも分けが分からない話になるのでちょっと怖いのですが
簡単に小説を書くというのは落語を聞いているのと同じだと思ってください
あまり、飛躍した理論を使うとそちらの専門家の人意見が食い違うので
出来る限りニュアンスで受け取って欲しいのですが

例えば美術品は完成体で観る物です
それは物質として現れた物でそれをどう見るかが受け手の問題になると思います
けれども、話芸、音楽などの生ものはそうではありません
話芸や音楽はある程度の時間の経過の中で
乱暴に言うと一つのその作品の質感があらわれてくるもので
その時間の経過=プロセスを省くことは出来ません

つまり、小説もそうなのですが
生ものの芸術にはそのジャンルのプロセスが必要です
話芸で考えてみます
話芸は話者と時間を共にしなければなりません
それより早く体感する事は不可能です
そしてその時間の流れには一つの質感があります

また、ここら辺が話芸の面白いところなのですが
話芸とは大体がこの質感を統一する全体を包むように存在する
落としどころ的な質感があり
話が終わった後にその質感により全体を俯瞰でき
更には細部を思い起こせるようになっています
(この辺は言語パーツの少ない音楽と違うところかもしれません)

漫才とかを見おわったあと
あれってこういう話だったよね
っていったあと、でもあの箇所のボケは最高だった
というように全体を包む質感は細部を思い出すパーツや鍵になり俯瞰視点を作ります
そしてこの俯瞰視点が作中に僅かながらも存在するおかげで
受け手は安心してその話芸のルールに没頭できるというのもあります

これが小説で言うところの物語やタイトルだと後藤は思います
そして、近年叫ばれているプロットを捨てろというのは
この枠を捨てろということになるのだと思います

この場合、気になるのは
これだけ叫ばれているプロットを捨てる利点になりますが
後藤はこれが一つの現代小説の終着点なような気がするのですが
それでは何も言ったことにならないので続けます

終着点と言いましたが、現代小説は現在
それまで作りに作り続けられ一つの完成体にたどり着いたのだと思います
だから今はその方法論を壊し、それまでは出来なかった作品を模索している状態だと言えると思います

事実、その先駆者となっているカフカは文章がぶっ飛んでいます
後藤的にはカフカのような小説は現代に現れてもどうしようもないと思っていますが
(それはカフカレベルの作品とカフカ風の作品とを見分けられる人が少なすぎることが原因だと思われます)
後藤がカフカを読んで驚いたのは前に書こうとして途中で辞めましたが
カフカには本当にプロットがないのだろうと思わせるところでした

小島信夫さまはカフカを悪夢を見ているようだと書いたと言いますが
小島さまには名作小説は最初の1ページからラストを暗示するものが含まれている
という考えがあり、その法則に反しているからだと後藤は考えています

そして、これが今回のお題のタイトルの支配力とさせていただきます

カフカの城という小説をぱっと見ていてビックリするのは
小説がシーンよりも質感が前に来て書かれていることです
つまり、あーなったらこうなるという法則がまずあって
(この夢の中(小説)では主人公は苦しみ続けなければならないという文体のようなものがあって)
それにシーンが強引に対応させられているという事になります

少し、例を出します
後藤が昔見た夢にこういうのがありました

当時僕は学生だったのですが
その夢の中では僕は学校の先生でした。
僕は寝坊や電車にうまく乗り合わせることが出来ず
遅刻してしまっていて慌てて教室に向かいました
(という事だけ分かっていて教室に駆け込むところから夢はスタートします。登場人物になった僕はそれを一瞬で理解したかのように登場人物になりきります)
そして駆け込もうとした教室の入り口には他の先生が居て
僕が「すいません、ちょっとおくれてしまいまして
って申し訳なくあやまっていると
「しょうがないですよ、とりあえず急いで授業をお願いします」とそこにいた先生は僕に声をかけてくれます
そして急いで、ドアを開けて大きく一呼吸したかと思うと気がつけば授業はすでに始まっていて
気がついたら僕は自分の席に座りその先生に遅刻したことを責められている生徒になって遅刻したことを悔んでいました

そして後藤はびっくりして目が覚めたのでその事を覚えているのですが
これが夢の不条理さか、と言うことを後藤に深く植え付けた夢でした
(因みに夢を見た当時、後藤は学生ではありませんでした。分けが分かりませんでしょうがそういう事なのです)

つまり、この夢の場合、プロットよりも
遅刻して慌てていることや誰かに責められるという強迫観念だけが全体を支配し
ストーリーではなく質感優位の話になっています
後藤は思うにこれがカフカのやったことだと思います

だから、カフカの城では測量士であることが一つの質感を誘うパーツのように
正否がごちゃごちゃになってシーン事に扱われたりするのではないでしょうか

随分、長くなりましたがもうちょっと続けます

さて、今回の記事を書こうと思ったのは実は
本名は伏せますがいそけんさんの小説について考えていたからで
何故、いそけんさんはタイトルを上手につけることを拒んでいるのだろうとずっと考えていたからでした

後藤が思うにいそけんさんのセンスや技量からすれば
いそけんさんが平均点以上のタイトルをつけられる事は誤解ではなく間違いないと思います
では、何故、いそけんさんはタイトルをつける事を拒むように作品とは遠いタイトルをわざわざ選ぶのか
(正直な話、後藤はクラシックの音楽みたいに作品番号とかで小説書いても良いと思っていたりするのですが)

それはいそけんさんがタイトルの支配力に抵抗しているからではないかと後藤は睨んでいます
前に、いそけんさんに話す機会があって聞いたことがあります
いそけんさんが
「ストーリーとは玉を転がしながら作る物だよ
と言ったので後藤が
「でもそれって何かしらの方向性を持って転がしていますよね
と言ったら
「いや、そうじゃなくてただその場、その場で転がすんだ
と言うことを言っていて
明らかに作品全体を支配しようとする力から逃れようとしている意志を感じました

これが現代日本の最先端の文学なのだと思います
正直、今回芥川賞候補に挙がらなかったのは残念ですが
いそけんさんは今、好ペースで書いているみたいなのですぐに次作を書くのではないでしょうか
それはとても楽しみです

今回の話はここまで
とりあえず、事は文学から離れるのでこういう話をするのはいつになるか分かりませんが
その時までまたまた

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2009年1月 7日 (水)

タイトルの支配力 前

守、破、離ではないけども実際離れてみると分かることと言う物はあるようで、とりあえずここの所、小説のことについてあまり書いてなかったたし、小説のことは書けると思ったとき書かないとまた当分書くことも無くなるし書く気も起きることがまず無いから、書けると思ったときに書いていこうと思う

ガルシア・マルケスは自分が教師をしているシナリオ教室の中でガボという愛称で呼ばれていてそのラテン風のあだ名がとても新鮮で気に入ったので今回はガボさまと呼ばせていただくけども
(ガブリエルだからガボらしい、多分英語圏だとガブになると思う)
そのガボさまは、物語を作るときヘミングウェイさまの言うところの「忌まわしき発見者」を自分の中に住わせておけという事を言い、書いたものを捨てる勇気を持てと言う
まず、ここに面白いことが一つある
書いたものを捨てる。これは作り手としてはためらいガチになるのだけどどうしてしなければならないのか
書いたものを捨てるのに何故ためらってはいけないのかと言う事に、ガボさまは自分の新しい創作の邪魔になるからと適切な説明を言っているが
後藤はこれに関してはそれ以前のクリエイターの心構えの話なのでは無かろうか
これは別に難しい話をするつもりでなく、もっと単純な話なので大丈夫です(何がだろう)

つまり、あなたがクリエイターならばあなたは新しく造っている最中にクリエイターは存在するわけであって
過去の編集でお茶を濁すというと言い方は悪いが
新しく作る行為をまず先に始めないことはちと間違っているのではあるまいか、と後藤は思うのです

かなり、前にも書いたような気もしますが、作家は造っている間にしか存在しないもので
クリエイターというものは造っている最中は確かにクリエイターではあるけども
造り終えるととりあえず一息ついて気を抜いて休憩時間に入り
もしかしたら旅行とか言ったり酒ばかり飲んだり、その間出来なかったレジャーに思いっきりいそしんだり
と、まぁつい先日までのクリエイターとは似てもにつかない緊張感のない生き物になることが結構ある
(注意:トップクラスの人は中毒症状のように何かをしている最中でもクリエイティブな事が頭から離れないようですので本物の方とは区別して考えるべきですが)

これは、考え方が違う人には受け入れがたいかも知れないことらしいのが
人間というものは環境や状況によってキャラクターが変わってりまうものらしく
養老先生が言うには、朝起きて何で自分は昨日まで自分と同じだと認識できるのか
実際は昨日までの自分とは物質的にも寝ている間に変化しているのだから
その認識は明らかに間違っていると言えるのだが
(そもそも、疲れは取れて頭はサッパリしている場合が多いでしょうから意識の状態がまず違い続いてはいません)
どうも人間には自分の中に本来の自分という概念があるようでそれが人間にそう思わせてしまうということ言ってた
つまり、人間は本来の自分というあるはずのない物を頭に持っていて
(養老先生が言うにはキリスト教文化は死んだ後の最後の審判に行く本来の自分というものが確固としてあるという考えが根本にあるのでこういう考え方は東洋独特だと言っていた)
それを基準にして恒常性として生活を成り立たせているというのが見解のようで
これって考えると大変なことになるけど、とりあえずそういう事らしい

だから、つい数日前まで物作りの事考えて試行錯誤してそれこそ朝から晩まで考え込んでいたクリエイターが
しぼんだ風船みたいにフラフラブラブラしていたらもうそれは何処ぞのダメ人間であって
もちろん数日前の恒常性でクリエイターだった何某かが消えて無くなるわけではないのでちょっとだけクリエイター部分が残っているけど
それは余程の機会がない限りクリエイティブな事は考えていない人間になり
クリエイターではなくなる
(つまり、逆に仕事から離れてもクリエイティブな事を考えてしまう人間はまさに本物のクリエイターとなるのだと思う)

話が随分それて、長くなってしまった
今回はこういう話をするつもりで書いたのではないのに・・・
とりあえず、現在ある物を捨てる勇気とは新しく造るという姿勢がクリエイターのそもそもの姿勢なので
毎回リセットを繰り返しリスタートするという姿勢を無くすことはしてはいけない
という事を簡単に言いたかったのだけども
それだけの話でこんなに長くなってしまった(ブログのタイトルとも関係ないし

なので、タイトルのことについてはとりあえず次回に回し今回はここまでということで
次回へ続きます

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2009年1月 4日 (日)

今年はじめのどうでもいい話

どうでもいい話になるのだけども
正月のテレビ特番の幾つかの感動もの作品を見ていると
急に発作が起きた見たいに頭がグラグラしてきてそれ以上見ることができなくなる
自宅の居間で日中はテレビが付きっぱなしなのでそういう機会が結構あったこともあるけれど
それにしてもこの拒絶反応は異常だと思い考える
少なくとも自分は芸術に沢山触れている人間なのだから
多分、感動するという感情を拒絶しているわけではない事だけは分かる

しかし、そうは考えてもその先が分からない
何故、反応が感覚的な拒絶反応なのだろう
思考する隙すら与えない自分の中にある何かの条件反射的行動

そういえば、先日の対談で石川さまが
つまらない小説は日常的思考の枠に収まっているからだと言っていたけども
それと関係あるのかしら

そういえば、岡田利規氏の楽観的な方のケースを読んでいてドキリとさせられる感覚はまさにそれで
恋愛とは誤解をネガティブな想像に向けて進ませるという力学があって
だから、ロミオとジュリエットは最後勘違いして死んじゃうくらいに
文学においてそういう事は歴史上証明されているとか聞いたことがあるが
楽観的な方のケースの主人公は見事に自分の都合の良いように考えてしまうから
トラブルがトラブルじゃなくなってしまうというのがハッとさせられる何かなのだろうと思う

と言うことは、人間にはその個人が持ってる個別の日常的な思考の流があって
それが何かに触れたときに、つまりイレギュラーな方向性にハッとなるのだが
正月特番に後藤が拒絶反応を示したのは
自分の思考の流れを行きたくない方向に向けられたからかしら
すると、それが世に言うつまらないというものなのかしら・・・

と色々考えてまとまっていないところで
今年はじめのどうでもいい話は終了であります

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2009年1月 3日 (土)

今年初めの雑記

二日、都内に遊びに行く際、トイレに寄るために新宿のルミネに入る
朝の10時30分頃、デパートの中は特別なバーゲンセールの時みたいに
大勢の客が殺気立ってワラワラ蠢いているから何かと思ったら
アパレルショップの福袋だった

「○万円相当の品が入った福袋が○万円となっています。残りわずかで~す
と飛び切り景気の良い声を張り上げている

が、何でこんな正月も二日にこんな大あわてで物を売って買い物せにゃならんのだろうと
呆れてみていたら、当然のように良く見ると店員も絶対飲みすぎで顔がおかしい人もチラホラと見えた
まぁ、稼げるときに稼がなきゃならんのは商人の性でしょうから立派とも言えますけれども・・・

そう言えば、福袋って何であんなに沢山の商品を詰められるかっていったら
勿論、それは売れ残りだからな訳で
と言うことは福袋の福って残り物には福があるの福だと思うのだが
みんな知ってか知らずでか大騒ぎで買いに行ってたりするのでありますね
こればっかしは100年に一度の不景気というのは嘘なんじゃ無かろうかと
少し、考え込んでしまいました
(データと体感がずれてしまいました)


今年は少し方向性を変えようと思いガルシア・マルケス著「物語の作り方」を読み始める
そしてストーリーというのが如何に大事かと言うことを思い知る
結果、ここの所へんてこな事をし過ぎたから今年前半は文学から離れることにしました
去年の末に漢詩の荘魯迅先生が
「人間は前代未聞や前人未踏の境地を目指し失敗する
という為政者の失敗するときの特徴を述べていたのですが
何だかそれが身につまされる様な気がしましたので・・・
とりあえず、まず初心に返り地味にやっていきまする
きっと得るものがあると思いまする

今回はこんな感じで、世間は見えないところで大変な騒ぎになっているようですが
皆様今年も、健やかに過ごされますように

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2009年1月 1日 (木)

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます
何かと難しい世の中ですが、今年もよろしくお願いします

今日は正月らしい動画を用意したのでお楽しみ下さい

↓正月版、傘地蔵

昔話はどんな時代においても人の心を打つものです

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