ゼロ年代の想像力を二章まで読んだ
なるほど、かなり面白い。また内容も現代について語られているので何かを考えるきっかけになるし良い本だと思う
が、ダメ人間代表としてリア充っぽい宇野常寛さんの引きこもり批判を黙って見過ごすわけにはいかない
後藤にはすっぱい葡萄患者とかいう言葉が発せられる度に地の底から怨霊のようなうめき声が沸き出でてくるのが聞こえてくる
これはとても危険だ
後藤の態度は酷く批判されるだろう、けれども
寝た子を起こしてはいけない
折角自らの内面の中に何とか過酷なリアルに対抗できる創造を成し遂げたのに
そんなのまやかしだと言い放ち叩き起こしてバトルフィールドに立たせようとするのは
いくら宇野さんが正義感を持って発言をしているとしても、止めなければ
また後藤に止める力が足りなくとも、対抗ベクトルの何かを打ち出さなければならない
とりあえず、今の時点で後藤が掴めている宇野常寛さんの意見はこうだ
90年代は何をやっても間違ってしまうという考えから何も選択しないという引きこもり文化が立ち上がったが
ゼロ年代はそれでは生き残ることが出来ないと知らされた時代で
人々はバトルロワイヤルに参加させられた人たちのように生き残るために
正しいや間違っているという基準以前にまず戦い行動しなければならない
まず、この時点で勝負の場に出ても負けるとわかっている人がいたとして
その人に戦場に立たせようというのはいささか理論が過激すぎるとは思うのだが
まだ、置いておくとして
宇野さんは人々に立ち上がって現実と向き合うべきだと言うことを繰り返し言っているように思える
また、良く書かれるサバイバルで生き残ると書かれているが、生き残る残れないの違いがよくわからない。引きこもりは負けだとして決断した人間はどの段階から生き残った勝者になれるのだろう
また、サバイバルと言うことは戦って倒れる者が居ると思うのだが、その人らに対してフォローが全くなく
更にバトルフィールドに出続けたらいつかどうにかなるという論法で語られている気がする
これはとても恐ろしいことだと思う
この理論は一般レベルの幸運とスキルを持っている人にはすべからく整合性を持つであろうけれど
個人ステータスが低く、また運に見放された人間に負けるとわかっている勝負場に迎えというのはあまりにも酷すぎる
同じように何度も負けて心がくじけてしまった人たちに次は勝てるから立ち上がれと受け取ってよいと思われるのだが
そのバブリーな向上心は狂気的で、どこで落ち着くのだろう、正直なところ落としどころがあるとは思えない
まぁ、それはそれで良いとして、今回は二章まで読んだのだからキャラクターとデータベースの問題について軽く書きたい
ちょっと引用
キャラクターは厳密には記号とはいえない。その成立のためにはキャラクター設定を承認する共同性が必要であり、共同性は物語によって規定されるからだ。キャラクターは一次著作から独立し、二次創作で改変され消費されることで、その設定をより徹底して承認させる共同性と、その共同性を規定する物語をメタレベルで再強化する。
(ゼロ年代の想像力 P46)
(やばいな、今回のこれは本格的にやるととんでもない量になりそうだ・・・)
とりあえず、これをふまえた上で東浩紀さまの動物化について宇野さんが一言で説明しているのでそこを引用
ポストモダンの時代、人々は歴史や社会の与える大きな物語ではなく、情報の海として静的に存在するデータベースから、自分の欲望するとおりの情報を読み込んで「小さな物語」を自身で生成する。そのため、人々は意味の備給にコミュニケーションを必要としなくなる----東はこれを「動物化」と呼んだ。
(P36)
びきゅう ―きふ 0 【備給】(goo辞書)
〔(ドイツ) Besetzung; 英 cathexis〕精神分析の用語。リビドーまたは欲動のエネルギーが特定の対象または観念に投入されている状態。カセクシス。
つまり、東さまはデータベースやキャラクターってのを小さな物語のを呼び起こすトリガー的なものとして捉え
宇野さんはその理論に対しキャラクターは記号ではなく、その波状に発生する二次創作はトリガーが引かれた結果ではなく。共同体を作り強化するための選ばれたツールだと言っている
さて、どちらが正しいのか後藤は評論の人間ではないので検証は出来ないが
宇野さんはこのコミュニケーション不足を強い口調で否定する
引用
「~する/した」という関係性(コミュニケーション)ではなく、「~である/~ではない」という設定(データベース)でアイデンティティを確保しようとする思想は、必然的にその設定を承認してくれる共同性(物語)を要求する。そして小さな物語への無自覚な依存は、極めて排他的なコミュニケーションと結びつきやすいことは既に述べた通りである。
(P49)
読んでいない人にわかるように書くのは膨大な補足を必要とするので今回はわかる人だけにしか理解できない内容になっていることをご容赦いただきたく思います
まず、宇野さんは
「~する/~した」というのを
行為=社会的自己実現と定義し
「~である/~ではない」というのを
自己像の設定=キャラクターの承認によってアイデンティティを獲得しようとする引きこもり的回路と定義しています
つまり、上の引用は引きこもり的想像力で私は~であると思いこんで小さな物語の中にはいっていくと排他的なコミュニティーに属すことになると
つまり、オタク的な物事を暗喩して批判していると思われます
おそらく、ここで宇野さんは
君たちは行動していないようで、つまりデータベースによるトリガーによって動かされているのではなく
自発的にアイデンティティを求め排他的なコミュニティーに属しているのだ
だから、その回路を今一度正せば、まっとうな人生が待っていると言っているように思います
後藤はその手の理論に異論は全くないのですが
今回の問題はその理論構成ではなく、宇野さんがその理論により引きこもり的な思想を更生しようというベクトルを打ち出そうとしているという啓蒙的な態度の方で
後藤は、それに対し自分の立場として、寝た子を起こしてはならぬとして反論しなければならないのです
一応付け加えておきますが、もし宇野さんが真に徳のある人でこの思想に乗っ取って身近の人々を開眼させ続けているのだとしたら
後藤はそれには賞賛の意を表します
今回の問題は宇野さんが遠くから言葉を発しているということで、それによって寝た子が起きてしまう可能性があり、その寝た子たちが起きたとき危機が訪れることが予感されるからです
(この危機についてはあまり書きたくないのですが、義務として軽く書きますと、やすい表現ですがアキバ系の(彼らの名誉を傷つけたくないですが空気の読めない人たちと表現させてもらいます)人たちがそのままの出で立ちで大量に渋谷に軟派しにいったと想像すると何かわかるかもです。まぁ、オタクは傷つくは女の子はヒステリックになるは、攻撃的なにーちゃんは暴れるは、そして最悪の場合刃傷沙汰になるは・・・・)
つまり、寝た子を起こすならば起きた後の面倒、つまり起きた後に彼らがしでかす問題にも覚悟がほしいと思うのです
(それこそが望むところのバトルフィールドだ、というマッチョな考えならばこの話はここでおしまいになりますが)
また、オタクの共同体を排他的コミュニティーとひとくくりにしてしまうのもかなり乱暴に思えます
宇野さんはここでのオタクを二次オタ(その中でも美少女萌えオタ)に限定していますが
後藤の体感ではオタクは複数の属性を持ち合わせている人がほとんどで
数年オタク活動をして美少女二次オンリーのオタクのままの人というのは見たことがありません
(遠い異世界に旅立ったヤマト発進な人は別、・・・さらば、地球よ…)
完全にアウトな二次オタの友人がいましたが、その萌え作品にはロボットとか出てきますし、ゲームならばそのゲームのジャンルとかありますし(格闘ゲームのキャラの場合など)
あまり綺麗な表現ではないですがその快楽的に枝分かれして、互いのオタクはオタク歴が進むとどんどん他のジャンルを自分の属性に追加していきます
(オレさー、最近メガネがわかるようになったんだよみたいなものから、不知○舞が好きで格ゲー始めたんだけどいつのまにか格ゲーマニアになってたよのような多ジャンル属性に移っていく例まで様々)
そのようなサブカルの娯楽性と吸引力のすごさはすさまじいものがあり
ガンダムの少年主人公が好きな女の子がいつの間にかガンプラ作ったりする(これは希、本当はインアクとか言いたかったけどわからないでしょうから)という事も起きたりします
なので、恋愛不能の鬱憤からオタク活動をしているという切り口でオタクを語ると結構ミスリードしてしまうと思うのですがいかがでしょうか
・・・長くなったのでそろそろやめます
最後に、東さまがALIVE2で言っていたうる星やつらの街に住みたいと思っていたというのは
厳密には美少女萌えの思想ではないと思います
それはそんな美少女の居る世界に住みたいという考えではなく、自分はこんな人たちが暴れ回っている楽しい街で巻き込まれるひとりとして住みたいと想像していたのだと思います
それが東さまの言うリアルはつまらないということだと思います
@でも後藤は毎週作者が作品に新しい何かを付け加えていくことを作者の独裁とは考えなかったなぁと思います。後藤はそれを自分の想像の修正、補完として楽しみにしていた覚えがあります
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