« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月

2009年2月25日 (水)

身内に緊急連絡

都合上、読まねばならない本に追いやられていて
情けがないことに他の本を読めない状況にあるのですが
百年で対談を見に行くこともあり、さすがに一読もしないということはありえないだろうと思い
桜井鈴茂さんの「女たち」を買って短編集なので一篇目のイズミを読んだのですがぶっ飛びました
石川さんが注目していると言うことはただ者ではないとは思っていたのですが
ここまで凄いとは想像だにしませんでした(つまり、恐れながら侮っていました)

立ち読みでも一篇20分かからずに読めると思います
身内で百年の対談に訪れる人は、MUSTで一篇だけでも読むことを推奨します
そして読んで損はない内容です
文章の軽さと詩的センス、一気に読ませるスピード感がありながら詩的な美しさを備え、しかしセンチメンタルには落ち着かないというスタイルはとても心地よいです
一応、ジャンル的には文学ではないようですが、文体は文学と言っても良いのではないでしょうか

身内の対談に来る人でまだ未読の人は手にとってみてください

| | コメント (0)

2009年2月24日 (火)

雑記

何故か、睡眠時間を削ると人間の性能が著しく低下するため
ここ数日間、頭が回らない日が続き、何も書けない状態になっていてそしてブログも更新できなかった
とは言っても、世間の多くの人は睡眠時間を8時を維持できている人なんてごく希だろうから
そして、その生活をしてもすばらしいパフォーマンスを打ち出せる人が世の中にいまくると言うことは
逆に考えると後藤の性能は元々が著しく低いとなる
という愚痴を考える
そして書き込んで人に読ませるような話ではないなと思う

絶対に答えを出してはいけない問題というのがある
何を言っているのか解らないように思われるかもしれないが
単純に考えればどうしても意図しない方向に思考が進んでしまうという物を
物事を考えたりする人はいくつか抱えてと思う
例えば未来の話がある、単純に考えてみれば日本の未来は暗い要素ばかりが目立つように思われる人も多かろうと思う
しかし、そんな面白くもない事を形にしても何にもならないのは明白で
だからそういったたぐいの物は考えている途中で考えるのをやめることにしているのだが
ここ最近、そう言ったたぐいの物ばかり考える事が多かった気がする
何だかそこに関しては嫌な予感がする

| | コメント (0)

2009年2月20日 (金)

本当にどうでも良いけれど実は意味があるかもしれない話

現代の問題、自我の肥大とはつまるところ大きな物語が消滅した事による
自己承認不足による自己承認欲求の暴走ではないだろうかと思われる
と久々に大事なことをてきとうに言ってみる

そんなこんなだけど今回の本題はそこにはない
どうやら識者の共通の意見として
ネットの思想的な位置の価値の低さがあるらしく
でも、多くの人が批判的な意見をするけれど解決策はあまり打ち出せていないようなので
ならニッチという事でクルクルパーの後藤にも発言する機会が許されるだろうというどうでもいい話

という事で発言権を持って発言
後藤に解決策は二つある
一つは思想をオタクカテゴリーに入れること
もう一つは思想をドラマとしてかっこよく描くことだ!

さすが、後藤屋!アイデアが奇抜です!!
・・・・と思った方は誰ひとりとして居ないだろうから補足をさせていただきます

まず、オタクカテゴリーに入れる事について
ご存じの通りオタクコミュニティーは島宇宙とか言うヤツで双方につながりは無い
電車オタクとアイドルオタクとアニメオタクと模型オタクとパソコンオタクと特撮オタク・・・・
とは共通項に若干つながりがある場合もあるが、基本的にはつるまない
それがネガティブに考えられる人もいるけれど、この場合は別に秋葉で思想オタクを発展させるとかの話じゃなくて
それは勝手にすればいい話にして、その発想を逆手にとり
思想的に考えている人達が自ら思想オタクを宣言すればどうにかなるのではないかというアイデアです

どういう事か、実はこのオタクカテゴリー、ものすごい求心力と向上的な運動性を持っていて
オタクになってしまったら、その上昇志向には逆らえないのです
つまり、

('Д')え!?お前、こんな初級の本も読んでないの?ダメジャン

とまず、オタクカテゴリーに入るとこうなります
が、これは昔の偉い先生達がしていたことと同じなだけなのでそれだけでは変わりません
が、しかし、オタクカテゴリーにはもう一つ求心力という力がありまして
それはとても緩く近寄る人をどんどん巻き込んでしまいます
そしてその緩さを通過すると

(´ゝ`)あ~、お前知らないのかよ。とりあえずこういう事だから・・・

とかなり緩く救済措置が出ます
この救済措置がとても大事で
反対意見としてこれだと学問の質が下がると思う方が多いでしょうがそれは間違いだと思われます
まず、これにより学問の敷居が一気に下がり、フランクな物になるでしょう
これはとても大事です
そして学問において重要なのはただ本を読むことではありません
頭のいい人との対話にも当然、学問はあります
そして本当の学問は頭のいい人がやれば良いわけで
本が読み解けない普通の人はその頭のいい人から適当にかいつまんで学問を楽しんでも良いわけです

ここに大事な事があります。それはこの頭のいい人からかいつまんだ学問は間違いなく生活で使える物で興味深い物だと言うことです
そして、そういうものがあると知ったらオタク達は初級者向けの学問の本を読んだり、もしくはブログを書いたり読んだりするはずです
もしかしたら、その人たちの行動や発言の端々に学問が入り込むかもしれません
そして、きっかけ作りは終わりました。後は勝手に動き始めるでしょう

というのが一つめのアイデアです

二つ目
企業戦略として学ぶことが格好いいというイメージを作ろう戦略
NHKの連ドラとかで学者のパロディ的なドラマを展開したりすると
そこかしこに思想的な物がちりばめられ、でもそれがパロディとして機能するので堅苦しくなく
いつの間にかみんな色々考えちゃう的なアイデアです

これも、滑稽に描かれる学者は反発を買うでしょうが
文学的な視点で語ると
勉強をしろ、という命令的発言の影響力というのは僅かな物で
人に一番影響を与えるのは存在であり
これの狙いはそれを表現してみんなを考えさせてしまおうというものです

大体こうなります
極々普通の女の子が(多分連ドラだと女性が主人公になる)哲学勉強しながら恋愛すると・・・

(*'ゝ')えっと、あのこの気持ちは無意識の中でえ~となんでだろう

みたいな事になって萌え萌えです(←間違った表現)

返す返す書きますが、人々に影響を与えるのは存在で
作品とはその存在のねつ造をすることが出来ます
たまには本屋のキャンペーンみたいなもので読書を広めるという手段だけではなく
出版社がタイアップして文学ドラマをつくったり哲学や思想ドラマをつくり
それに関連する入門書を沢山作れば馬鹿売れ間違いなし、思想界の未来は明るいのではないでしょうか

という、どうでもいい話でした

そう言えば、ブログで識者達が島宇宙にならないことが大事ね
ブログでしか書けない短い話を瞬発力を持って
書簡の対話みたいにあーだーこーだ言うのも良いのではないかしら・・・

そして更にどうでもいい愚痴
雨が上がったら暖かくなるって聞いてたのに寒いままだ、納得がイカン

| | コメント (0)

2009年2月16日 (月)

冷月

時はさわれず、けれど止まらず

心は見えず、そして騒ぎ続ける

目を閉じても時の留まることはは叶わず

気がつく間もなく針は彼方へと進んでいく

眠りから覚めれば日はただ過ぎていくのみで

にもかかわらず年月は殊更に数えられる事を拒む

冬には冷淡な雨が降る、凍てく空気と刺す痛み

立ち止まってしまえば、冷たい風が頬をぬらし始めてしまう

思い出せない過去のこと

そして更に思い出せない昨日のこと

彼方から獣の遠吠えが聞こえてきた

声は透明、澄んで美しく、けれど消えない憂いの響き

冷たい月は輝く刃のよう

夜は誰もが傷ついてしまうのだろうか

| | コメント (0)

2009年2月15日 (日)

軽くゼロ年代のまとめ

遅読なものでようやくゼロ年代の想像力を読み終わる
感想はコミュニケーションを重視するという考え方はすばらしいように思うけども
終わりある故に可能性のある日常というものと終わりない日常というものの区別がどこにあるのかと言うのが自分の中で納得できていない
養老先生に言わせれば、人間は物質レベルで日々変化している物で
そこにシステムの恒常性が働いているために人間は目が覚めて意識が戻った時に昨日と同じ自分がここにいると思うことが出来るのだそうだ

近代はそこに本当の自分という概念を持ちだし、そのシステムの恒常性を個人個人の特性としてまとめ上げている存在があると考えた
おそらく、終わり無き日常とはこのシステムの恒常性の上位に存在する恒常性の本質というものだろうと思われる

ここで問題になるのはこの恒常性の上の本質が共同体のどの部分に存在するのかという事だと思われる
そこで、ゼロ年代の想像力では木更津キャッツアイの見えている死の時を抱えて生きている人々を例に出していた
それ故に、その共同体の人々はこの瞬間が終わることを知っていて生きている
これが重要だと書かれていた
この意見に全く異論はないが、この限られた時間の中を生きている自覚という姿勢は
実際に現代を生きていてあまり実感をもっていただけないように思える
消費社会が進むと過激な表現が求められるようになるという概念を誰かが言っていたが
この表現から死を受け入れて生きるという姿勢を現代人に受け入れてもらおうというのは
あまりにも急激で段階を飛ばしている感もある

文学的に言えば、これは死という概念はあまり気にしなくて良いのではないかとも思う
終わり無き日常というのは限られた生の中にあるというよりも
自分の時間は限られているのだ、だから今のこの一瞬が大事なんだという姿勢なのだと思われ
それは現代の無限の時を生きる人々の無気力感に対抗するものだったのではないだろうか
宇野さんもおそらくこういう事を考えていたのだろうけれど
今を大事にするということは書かれていなかった、この辺りはとても重要に思える

また、ブログなのでいろいろな段階をとばして結論に言ってしまうが
終わり無き日常は恒常性の絶対性を信じ、維持しようとする変化を拒む共同体で
終わりある日常というのは死を受け入れるということではなく
死、つまり一つの終わり、そしてそれは一つの始まりであることから変化を拒まず受け入れるという姿勢を指していると思われる
宇野さんは終わっていく共同体に重要性を書いていたが
重要なのはマイナーチェンジを繰り返している共同体で
立ち上がっては消え乱立していく、恣意的な表現になるが脆弱な共同体ではないと思う

長々と書いたけども、ゼロ年代についての項はこれで終わりになると思います
今は、動物化するポストモダンを読み始めました
(ゲーム的リアリズムしか読んでないので)
やらねばならぬ事があるのに、こんな寄り道してて良いのだろうかとも感じますが
とりあえず、考えられるときに色々と考えようと思います

追記、オタクの排他的な姿勢というのは人を高める場合のピアプレッシャーと考えてみると
現代ではそういう圧力がない為にサブカルでまとめて起こっているのではないかという見解も可能だと思います
単純に彼らオタクの排他性をネガティブに捕らえるとミスリードするおそれを感じます
もちろん、彼らが迫害から臆病になり心を閉ざしている感はありますが
彼らが仲間しか認めないのは本気を求めているからだという姿勢もあるのだと思います

| | コメント (0)

2009年2月12日 (木)

どうでもいい話

非モテの話をしているとアドレナリンが出るらしく楽しんで書いていたのだが
どうやらとても色々とヤバイようなので本当に控えようと思う今日この頃
本当は当日に逆チョコ用意して、ノートパソコンの画面を初音ミクにして

(´人`)女神さま、今年もオタクたちの事を見守っていてください

っていうネタをやろうと思ったのだけど中止で無念

@愚痴
何で、宇野常宏さんは腐女子に対しては全く糾弾したりする姿勢がないのだろう
宇野さんは男性のオタクたちばかり責めていて女性は問題ないと思って居るみ
たいだけど

仮面ライダーとかってヤバイ女性ファンが居ることくらい知っているだろうから

リョータローとイマジンたちに囲まれて女王様的な立場になって自己を承認されたいという欲求

('Д')これぞ逆レイプファンタジー!

って事は絶対言わない、なぜだろう
全然解らない

更に愚痴
批評家の人たちってそういうロジックで考えるのがでデフォルトなのかどうかしらないけど
宇野さんは全ての設定は質感を呼び起こすためのトリガーであるっていう観点から物事を考えたことがないように思える
よくわからないけど、いいじゃんアニメで仲良くコミュニケーションとってても
そこに小さな成熟はあるんじゃないのかしら(質感的には大差ないのではないかしら)
異性と関わることは少ないかもだけど
それはどのコミュニケーションでもあり得ることだろう
(フットサルは女性をメンバーとして加えないといけないとかのルールあるところもあるけど草野球の人とかって全く女っ気ない人とかいっぱいいまするよ。例、伊集院光師匠のラジオ的な草野球)
解らないけど、レイプファンタジー的な作品でコミュ作って盛り上がっている人たちはその共同体で活動する間に小さな成熟を得たりするんじゃないかしら

というか、オタってほっといても群がるからそこに小さな成熟はあると思うのだけど
清い汗を流す物だけが正当化されるというロジックは危うい気がする

というか、

(´ゝ`)君たち、人間として間違っているからそういう活動はやめなさい

という、ある種、昔の無理解なおやじたちがオタクをバッシングしているような態度に近いものを感じる
更に言えば、宇野さんは萌えという概念に拒絶反応が出る体質のようで
後藤は何故そんなトラウマを宇野さんが抱えているのかが気になったりならなかったり

しかし、コミュニケーション能力が年々低下してきているというか
年々コミュニケーション能力が生きるために必要とされている昨今
(チューリングテストをクリア出来るプログラムが現れないことからも解るように未だコミュニケーションだけは絶望的に技術が追いついていない=機械で代替できない、今や人間にとって限りあるニーズのある能力)
コミュニケーション能力に焦点を当ててその育成を目指すという姿勢は未来的ですばらしいと思うので頑張っていただきたい

けども、今のレイプファンタジーの構造だと
同性間だけのコミュニケーションでは成熟はありえないと言ってしまっている気がするのですが
その辺はどうなのでしょうか

| | コメント (0)

2009年2月11日 (水)

とりあえずの更新

どうでもいい話、ゼロ年代の想像力の12章の平成ライダーを語っているところがたまらん
依然、レイプファンタジーという概念をまかり通すわけにはいかないという後藤の立ち位置は変わらないが
この内容は身内のライダー好きに教えてあげようと思う
 
 
もっとどうでもいい話
世の中には逆チョコというのがあると言うことを聞く
禁止されたが未だ完全に非モテマインドにある後藤は

('Д')これは、まさか非モテが逆さ十字架みたいに当日引きこもって食いあさる儀式用の供物なのか!!
(日本ハジマッタ!)

と思ったら(なぜそう思ったのかは解らない)、男性が女性にあげるというひっくり返りイベントの道具らしい

まぁ、いいや。後藤はネタ用に買ってこよう

| | コメント (0)

2009年2月 7日 (土)

後藤、後輩に説教される

返す返す、後藤は批評的な言説は苦手なので中身のあることはいえないけれど
その代わりに文学的な視点でならば物事を語ることが出来る
ゼロ年代の想像力を読んでいて思うのは
宇野常寛さんが激しい論調で東浩紀さま批判をしているのは
東さま理論が大嫌いなのではなくて、逆にその昔影響を受けすぎたその反動で猛反発しているかのように見える
まるで、その激しい論調は過去に大きな影響を受けてしまった自分に過剰な罰を与えたいかのようだ
しかし、その姿勢こそが過去に区切りを付けなければならないという宇野さんの意志の表れであり志なのだろうとも思う
(とはいえ、レイプファンタジーという概念に同意する訳にはいかないという後藤の立場は変わらないけど)

金曜日、後輩とオタク的あつまりをし、そしてその場のノリで悩みを聞いてくれと言われたので朝まで飲み会をする
つまり、後輩たちは何かの悩みがあって後藤を飲みに誘ったわけで、もしくはそれが口実だったのかも知れないが
そのはじめは話しが“聞きたくて”後藤を飲みに誘ったのは間違いないと思われる

が、飲み会が開かれるといつの間にか後藤は後輩に二人から説教を喰らう羽目になる
お題はここ最近ブログで書いた非モテ論について

「後藤さん、非モテって名乗っちゃだめですよ!

「そんな事言ってたら本当の非モテな人たちにマジギレされますよ!

という、意味があるのか無いのかわからない内容でスゲー怒られる
その結果、もうこういう事言われたくないということもあって当分後藤は非モテと名乗るのが禁止になる
つまり、後輩に言いくるめられた情けない後藤
非モテの代弁者という立場をあっさり取り上げられた

そして朝日は昇って日は暮れて、別に何も変わっていない
当然、どこら辺が非モテじゃないのかもまだ分かっていない

| | コメント (0)

2009年2月 5日 (木)

更に雑記(とりあえずというしかない結論)

先日から、ずっとゼロ年代の決断の重要性について書いてきたが
とりあえず一つの結論にたどり着いた
それは一見思想とは関係ないように見えるかもしれないが
現代の最も重要な課題は
早急なるネット倫理の完成もしくはネット法の整備とシステム
なのではないかというものだった

現代、大きな一つの成熟という物は存在せず小さな各の成熟のを目指すしかないというのはポストモダンの時代には共通認識と捉えて良いように思える
そして、小さな成熟のために必要なのは小さな共同体である事は間違いが無く
そしてならばおそらく、現在不足しているのはその責任を無報酬でしょってくれるリーダー(王)が不在であるという事になるのだろうと思う
けれど、後藤はここで愚か者が考えないことの自由も保障したく思い
(共同体を発見することの責任性の排除)
人が成りゆきで選択をしてしまうという思考停止の否定はしたくない
後藤はあくまでも愚か者は愚か者として不自由なく暮らせることが理想だと思っている
例を出すならばそれは、落語の立川談志師匠の言葉に「落語は人間の業の肯定」というものに見いだせる
それは乱暴に解釈すれば、
人間はどうしても愚かな一面があり、またどうしようもなく愚かな人も存在してしまう物であり
その愚かさをともに笑って許す文化という意味になる
この様に伝統芸能的に人の愚かさは消すことが出来ないと結論づけているのだから、後藤はそれは無視してはいけないのではないかと思う

けれど、人は愚かに考えずに小さな共同体へ承認を求めてさまようが
その場合、人の持つその愚かさ故に悪意のある共同体へ知らずに所属してしまうかもしれない
そしてその場合の悲劇に対し、後藤の理論には何の手だてもない
後藤は実際にそのような共同体に所属してしまう人たちを自分の目で見てきた故にその人の愚かさをただ無知という事で片付けることは出来ないという立ち位置がある
そして多くの人が知りうる限り、それに抗う力は愚か者にはその愚かさ故に持ち得ない

そうやって考えた結果に出した結論が
せめて賢者の行動を妨害しないよう。まず、ネット倫理による賢者への無数の小さな悪意ある妨害を消し、賢者たちが良質のパフォーマンスをすることによって、手探りで人は小さな共同体がいくつか出来ればそこから人々は成熟を手にし
そして、そこから枝葉的に人々は良質で小さな共同体は生まれるのではないだろうかという結論だった

事実、90年代後半から現在においての問題はそのまま社会のシステムの変化の影響を強く受けている
個人同士での密な連絡経路が携帯電話の誕生により整備され
膨大な情報が簡易検索システムで万人に開かれるという知識の放出がインターネットによって開かれた
個々人はネットの仮想空間に独自のスペースを持ち始め、そこでこのブログからも見られるように自己を発信し続けている
これは前年代までのそれぞれが持っていた複数の仮想精神世界が(それぞれが信じる架空世界、神、学問、サブカルなど)
一つの具現化された形としてモニターの前に現れたともいえる
もちろん、それによって伝統的な架空世界は滅びたわけではなかったが
新しく生まれた人たちにとっては、このネット世界のリアリティは伝統的な架空世界を圧倒する物だった

また、長くなりそうなので適当に切り上げることにします

そして、現代、ネットはリアリティのある空間として人々に受け取られ
にも関わらず、未だ非現実的な空間として法整備が追いついて居ない状況になっているのが現在の状況といえると思う
ネット発言の小さな暴力、それを誰もが小さなデスノートを持っている状態であるとしてトークラジオALIVE2で比喩されたが
人は抑圧がなければ暴力を振るってしまう物であり、それに対処すべきシステムが必要なのが現代ではないだろうか
現実空間で人が他者に暴力、または暴言を行使しないように努めているのは
それが自らに危機を及ぼすきっかけになること(法的罰則)を知っているからであり
倫理で人はそうすることを踏みとどまっているわけではない

後藤は現代、無報酬の行動の抑制は拝金思想だけから来る物ではなく
ネットの発言による、モチベーションの削減が最も大きな原因なのではないかと思う
ネット発言について多くの識者が人間の性質上の問題の解決を掲げた
しかし、それは人間の本質に関わるものだけに変化を望むのは不可能に思われる
どのような子供、また暴力的な人にも使用権を与えてしまうのが文明であり
車に免許が必要になったように、文明の進歩とともに新時代では新たな法整備が必要になると思われる
(もちろん、使用制限をすることはツールという性質上不可能に思えるので権力の乱用にならない制度改革のブレイクスルーが必要とされていると思う)

情けない結論になるが、まずは早急にその問題を解決しない限り
どの様な解決策も徒労に終わるのではないだろうか
そして思想家はいち早く現代の新しい、しかも日本の独特のネット社会に適応したネット倫理を考え形にしなければならないのではないだろうか
その視点から言えば先日のネットを自然と捉えた濱野さんの考えはとても未来的なのではないかとも思った

| | コメント (0)

2009年2月 4日 (水)

雑記(軽くサブカルの話)

何だか冬に入ると気づかないレベルで風邪を患い続けている気がする
風邪気味になったかと思ったらいつの間にか治っていて、かと思ったらぶり返す
そして今日、明らかにまずい症状が出てしまう
どうにか一日で治すべく安静にする
何年生きたところで、冬を賢く乗り切る方法がわからない

前回、非モテ批判は危険だと書いた
でも、それはしっかりとした思想の上に考えたものではなく
むしろ、祈祷師が神の怒りを鎮めるかのごとくに念を発したわけで
ゼロ年代の想像力は視点としてとても面白いと思って読んでいるし
宇野常寛さんは将来性の高い思想家だと後藤は思っていることを付け加えておきます

オタクはそうでない人から見たら全く持って怪奇な生き物で
怪奇な生き物は人に恐怖を感じさせ、そして排除したくなるというムーブメントが
後藤は体感として電車男前まであったと思っていますが
これも直感的な事で申し訳ないけれど、宇野さんはその電車男前のオタク価値観を引きずっているように思えます
電車男前のオタクが市民権を得る前の一般的な人から見たオタクへの視線というのは
蹴りたい背中によく現れていて、自分は何でこんなにつまらないのに目の前のこいつはこんな気色の悪いことに夢中になっているのか理解不能により自分の中で混乱が起こる
という事からもわかるように、当時、電車男前まではオタクは宇宙人的異物でした
それが、電車男でオタクに自分たちと同じ人間であり、喜びもするし悲しみもすると言ったような人間性を持たせ
市民権を得ることになりました

雑記なのであまり長く書くわけにもいかないので適当にしめますが
オタクの未知の生物度合いと同レベルの未知の生命体が90年代に存在しました
それはコギャルです。コギャルは自分たちの中で暗号言葉を作り、自分たちの価値観だけで生きていく共同体を作っていきました
当時、特に後藤は近い世代にコギャルが居たりしたのでバイト等で交流があり彼女たちを良く見ていましたが
そこにあったのは無理解でも揺らぐことがない強者の感覚でした(若い肉体という強烈な武器で相手を圧倒する)
ここが、オタクとコギャルの違うところです
そしてオタクたちはその強さを持っていなかったために、コギャルに向けられたようなバッシングを抵抗できずに受けるしか無く
そしてその歪みは加速する構造にあったと言って良いのではないでしょうか
幸い、現在はかなりオタクの線引きが緩くなっていて
ゲームをしているくらいではもはやオタクではなく、ガンプラも趣味として片付けて良い物になっています
(アニメを見ているというだけで恥ずかしい時代が昔ありました)

そして、サブカルはその影響力からサブのカテゴリからはみ出し始め
サブカルで物事を語ると言うことは難しくなっています
(同じジャンルの中で芸術と言われるものと(メインカルチャー)オタク向けのもの(サブカル)との区別が難しくなっている現状)
事実、東浩紀さまが言っていましたが
ゼロ年代の想像力はサブカルで現代を語る最後の作品になるのではないかと後藤も思っています

| | コメント (2)

2009年2月 2日 (月)

引きこもりたちへの鎮魂歌

ゼロ年代の想像力を二章まで読んだ
なるほど、かなり面白い。また内容も現代について語られているので何かを考えるきっかけになるし良い本だと思う

が、ダメ人間代表としてリア充っぽい宇野常寛さんの引きこもり批判を黙って見過ごすわけにはいかない
後藤にはすっぱい葡萄患者とかいう言葉が発せられる度に地の底から怨霊のようなうめき声が沸き出でてくるのが聞こえてくる
これはとても危険だ
後藤の態度は酷く批判されるだろう、けれども

寝た子を起こしてはいけない

折角自らの内面の中に何とか過酷なリアルに対抗できる創造を成し遂げたのに
そんなのまやかしだと言い放ち叩き起こしてバトルフィールドに立たせようとするのは
いくら宇野さんが正義感を持って発言をしているとしても、止めなければ
また後藤に止める力が足りなくとも、対抗ベクトルの何かを打ち出さなければならない
 

とりあえず、今の時点で後藤が掴めている宇野常寛さんの意見はこうだ

90年代は何をやっても間違ってしまうという考えから何も選択しないという引きこもり文化が立ち上がったが
ゼロ年代はそれでは生き残ることが出来ないと知らされた時代で
人々はバトルロワイヤルに参加させられた人たちのように生き残るために
正しいや間違っているという基準以前にまず戦い行動しなければならない

まず、この時点で勝負の場に出ても負けるとわかっている人がいたとして
その人に戦場に立たせようというのはいささか理論が過激すぎるとは思うのだが
まだ、置いておくとして
宇野さんは人々に立ち上がって現実と向き合うべきだと言うことを繰り返し言っているように思える

また、良く書かれるサバイバルで生き残ると書かれているが、生き残る残れないの違いがよくわからない。引きこもりは負けだとして決断した人間はどの段階から生き残った勝者になれるのだろう
また、サバイバルと言うことは戦って倒れる者が居ると思うのだが、その人らに対してフォローが全くなく
更にバトルフィールドに出続けたらいつかどうにかなるという論法で語られている気がする
これはとても恐ろしいことだと思う
この理論は一般レベルの幸運とスキルを持っている人にはすべからく整合性を持つであろうけれど
個人ステータスが低く、また運に見放された人間に負けるとわかっている勝負場に迎えというのはあまりにも酷すぎる
同じように何度も負けて心がくじけてしまった人たちに次は勝てるから立ち上がれと受け取ってよいと思われるのだが
そのバブリーな向上心は狂気的で、どこで落ち着くのだろう、正直なところ落としどころがあるとは思えない

まぁ、それはそれで良いとして、今回は二章まで読んだのだからキャラクターとデータベースの問題について軽く書きたい
ちょっと引用

 キャラクターは厳密には記号とはいえない。その成立のためにはキャラクター設定を承認する共同性が必要であり、共同性は物語によって規定されるからだ。キャラクターは一次著作から独立し、二次創作で改変され消費されることで、その設定をより徹底して承認させる共同性と、その共同性を規定する物語をメタレベルで再強化する。
(ゼロ年代の想像力 P46)

(やばいな、今回のこれは本格的にやるととんでもない量になりそうだ・・・)
とりあえず、これをふまえた上で東浩紀さまの動物化について宇野さんが一言で説明しているのでそこを引用

ポストモダンの時代、人々は歴史や社会の与える大きな物語ではなく、情報の海として静的に存在するデータベースから、自分の欲望するとおりの情報を読み込んで「小さな物語」を自身で生成する。そのため、人々は意味の備給にコミュニケーションを必要としなくなる----東はこれを「動物化」と呼んだ。
(P36)

びきゅう ―きふ 0 【備給】(goo辞書)
〔(ドイツ) Besetzung; 英 cathexis〕精神分析の用語。リビドーまたは欲動のエネルギーが特定の対象または観念に投入されている状態。カセクシス。

つまり、東さまはデータベースやキャラクターってのを小さな物語のを呼び起こすトリガー的なものとして捉え
宇野さんはその理論に対しキャラクターは記号ではなく、その波状に発生する二次創作はトリガーが引かれた結果ではなく。共同体を作り強化するための選ばれたツールだと言っている

さて、どちらが正しいのか後藤は評論の人間ではないので検証は出来ないが
宇野さんはこのコミュニケーション不足を強い口調で否定する

引用
「~する/した」という関係性(コミュニケーション)ではなく、「~である/~ではない」という設定(データベース)でアイデンティティを確保しようとする思想は、必然的にその設定を承認してくれる共同性(物語)を要求する。そして小さな物語への無自覚な依存は、極めて排他的なコミュニケーションと結びつきやすいことは既に述べた通りである。
(P49)

読んでいない人にわかるように書くのは膨大な補足を必要とするので今回はわかる人だけにしか理解できない内容になっていることをご容赦いただきたく思います
まず、宇野さんは
「~する/~した」というのを
行為=社会的自己実現と定義し
「~である/~ではない」というのを
自己像の設定=キャラクターの承認によってアイデンティティを獲得しようとする引きこもり的回路と定義しています

つまり、上の引用は引きこもり的想像力で私は~であると思いこんで小さな物語の中にはいっていくと排他的なコミュニティーに属すことになると
つまり、オタク的な物事を暗喩して批判していると思われます

おそらく、ここで宇野さんは
君たちは行動していないようで、つまりデータベースによるトリガーによって動かされているのではなく
自発的にアイデンティティを求め排他的なコミュニティーに属しているのだ
だから、その回路を今一度正せば、まっとうな人生が待っていると言っているように思います

後藤はその手の理論に異論は全くないのですが
今回の問題はその理論構成ではなく、宇野さんがその理論により引きこもり的な思想を更生しようというベクトルを打ち出そうとしているという啓蒙的な態度の方で
後藤は、それに対し自分の立場として、寝た子を起こしてはならぬとして反論しなければならないのです

一応付け加えておきますが、もし宇野さんが真に徳のある人でこの思想に乗っ取って身近の人々を開眼させ続けているのだとしたら
後藤はそれには賞賛の意を表します
今回の問題は宇野さんが遠くから言葉を発しているということで、それによって寝た子が起きてしまう可能性があり、その寝た子たちが起きたとき危機が訪れることが予感されるからです
(この危機についてはあまり書きたくないのですが、義務として軽く書きますと、やすい表現ですがアキバ系の(彼らの名誉を傷つけたくないですが空気の読めない人たちと表現させてもらいます)人たちがそのままの出で立ちで大量に渋谷に軟派しにいったと想像すると何かわかるかもです。まぁ、オタクは傷つくは女の子はヒステリックになるは、攻撃的なにーちゃんは暴れるは、そして最悪の場合刃傷沙汰になるは・・・・)
つまり、寝た子を起こすならば起きた後の面倒、つまり起きた後に彼らがしでかす問題にも覚悟がほしいと思うのです
(それこそが望むところのバトルフィールドだ、というマッチョな考えならばこの話はここでおしまいになりますが)

また、オタクの共同体を排他的コミュニティーとひとくくりにしてしまうのもかなり乱暴に思えます
宇野さんはここでのオタクを二次オタ(その中でも美少女萌えオタ)に限定していますが
後藤の体感ではオタクは複数の属性を持ち合わせている人がほとんどで
数年オタク活動をして美少女二次オンリーのオタクのままの人というのは見たことがありません
(遠い異世界に旅立ったヤマト発進な人は別、・・・さらば、地球よ…)
完全にアウトな二次オタの友人がいましたが、その萌え作品にはロボットとか出てきますし、ゲームならばそのゲームのジャンルとかありますし(格闘ゲームのキャラの場合など)
あまり綺麗な表現ではないですがその快楽的に枝分かれして、互いのオタクはオタク歴が進むとどんどん他のジャンルを自分の属性に追加していきます
(オレさー、最近メガネがわかるようになったんだよみたいなものから、不知○舞が好きで格ゲー始めたんだけどいつのまにか格ゲーマニアになってたよのような多ジャンル属性に移っていく例まで様々)

そのようなサブカルの娯楽性と吸引力のすごさはすさまじいものがあり
ガンダムの少年主人公が好きな女の子がいつの間にかガンプラ作ったりする(これは希、本当はインアクとか言いたかったけどわからないでしょうから)という事も起きたりします
なので、恋愛不能の鬱憤からオタク活動をしているという切り口でオタクを語ると結構ミスリードしてしまうと思うのですがいかがでしょうか

・・・長くなったのでそろそろやめます

最後に、東さまがALIVE2で言っていたうる星やつらの街に住みたいと思っていたというのは
厳密には美少女萌えの思想ではないと思います
それはそんな美少女の居る世界に住みたいという考えではなく、自分はこんな人たちが暴れ回っている楽しい街で巻き込まれるひとりとして住みたいと想像していたのだと思います
それが東さまの言うリアルはつまらないということだと思います

@でも後藤は毎週作者が作品に新しい何かを付け加えていくことを作者の独裁とは考えなかったなぁと思います。後藤はそれを自分の想像の修正、補完として楽しみにしていた覚えがあります

| | コメント (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »