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2009年5月22日 (金)

歴史は終わったけど、そのあと人間も終わったらしい 後編

と言うわけで現代思想のゆくえ後編
冷戦構造が崩壊したことにより友と敵で作られていた政治の世界も崩壊して
そして歴史が終わった
そしてその歴史と政治が終わり、政治的なものは全部環境だから考えても行動してもしょうがない
というのが動物化した人間で現代はそういう人が自分で思ってなるのではなく構造上生まれてくる
というのが前回までの内容

今回はF・フクヤマが『歴史の終わり』(1992発刊)という本を書いて世の中動物だらけになったと言ってしまったけど
そのままでいけないと言うことで色々考えていたという本を紹介

まずフクヤマは『大崩壊の時代』(1999発刊)で動物学的に考えたら人間は群れで行動するし、社交性が根本にある生き物だから動物化したとは言え、人間はそうそう別の生き物にはならない
ということを動物行動学から考えたという本の引用から

 チンパンジーは、階級内の自分の地位からして当然と思われる敬意が払われないと-言い換えれば「みくびられる」と-怒りをおぼえるようだ。
 集団で競争したり暴力をふるったりするために団結する性質や、オス同士が絆を結ぶ現象などから見て、チンパンジーは人間にとてもよく似ている。ランガムは、タンザニアのゴンベ国立公園のチンパンジーが、公園内の北と南に分かれた二つのライバル・グループと見なすしかない集団に分裂する様子を記述している。北のグループから四頭か五頭のオスの一団が出発し、自分たちの領域を守るだけではなく、しばしばライバル・グループの縄張りの奥深くに入りこんだ。そして、一頭だけいるチンパンジーを計画的に不意打ちした。その殺し方は身の毛のよだつほど残虐であることも多く、襲いかかるチンパンジーはわめきちらし、病的に興奮しながら浮かれ騒いだ。最後に、南のグループのオスはみな殺しにされ、メスも何頭か殺された。残ったメスは北のグループに加わるよう強いられた。一世代前に、人類学者のライオネル・タイガーは人間の男は協力して狩りをする必要があったため、たがいに絆を結ぶ特別な心理的素質をもっていると論じた。ランガムの研究は、オス同士の絆の源泉ははるかに古く、人類よりも前からあったことを示している。
 チンパンジーの社会行動のこうした事例には重要な意味がある。人間とチンパンジーは非常に近い関係にあるからだ。いまや霊長類学者は、チンパンジーと人間は少なくとも五○○万年前まで生きていた、チンパンジーによく似た共通の祖先の血をひいていると考えている。現存する数千種の哺乳動物のなかで行動パターンがもっとも近いというだけではなく、分子レベルにおいても、チンパンジーのゲノムは人間のものに近いらしい。

つまるところ、人間は遺伝子的に政治的な絆をつくり行動をするように決定づけられているのだと言い
それは文明によって作り上げられたものではないと言いこう言っている


人間は生まれつき社交的である。ほとんどの人にとって、病的な苦悩の症状が現れる原因は、社交ではなく孤立である。不自然なかたちの家族もあるかもしれないが、血縁関係は人間と人間以外の種に共通の一定の構造をもって存在する。自分と他者を比較するのは人間だけではなく、他の霊長類でも同じである。あらゆることから考えて、チンパンジーは社会的地位が認められると誇らしく感じ、それが認められないときは怒りを感じると言ってもよい。

自己承認欲求は人間の根底にあるものだから人間は社交的な生き物として生まれてくるという
性善説か性悪説かわからないけど凄い論法を使い
人間は動物化したけど、動物化した人間は結構人間だったと言っている

しかし、そこでフクヤマの悩みは終わらない
歴史が終わっても人間は人間として生きていたが
今度はその人間の根底をくつがえすとんでもない出来事が起こり始めているのだと
『人間のおわり』(2002発刊)で言っている
まずはその自尊心というか承認欲求が人間にとってどれ程なのかという事をこの本でも今一度解説

プラトンの『国家』で、ソクラテスは、人の魂は、欲望、理性、ギリシャ語でテューモスと名付けた意義ともいうべっきものの三部からなる、と述べている。テューモスとは、人格の中で誇りに関する面であり、他の人に自分の価値や尊厳を認めてもらうことを求める。物質的なもので欲求を満たしたいという願望、つまり経済学者が普通、人間行動の動機として理解する有用性ではなく、他人に自分のステイタスを認めてほしいという客観的視点に立つ欲求である。(略)つまり、ジャガーが欲しいのは、格好のいい車が好きだからというよりも、隣人のBMWを負かしてやりたいから、というわけだ。

つまり、ジャガーが欲しいのは物質を求める欲求ではなくて他者との比較による承認欲求だ言っている
そしてそこを踏まえて政治の話へ

 たいていの政治理論家は、他人による承認の意味を認め、とくに政治学にとってそれがいかに重要であるかを認識している。王子が他の王子に闘いを挑むのは、土地や金が欲しいからではない。もう王子は、既に使いきれないほど多くの物を持っているのだ。
(略)
 ヘーゲルは、人の承認を求める闘いが純粋に人間的現象であり、人間であることの意味の中心となると考えた。しかし、これは間違っている。他者の承認を求める欲求は、生物学的基質によるものであり、他の動物にも存在する。動物の多くは集団内で順位を決めようとする(鶏からきた「つつきの順位」という言葉もある)。ゴリラや、とくにチンパンジーなどの霊長類になると、ステイタスを求める闘いはなかなか人間的に見える。霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールは、いみじくも『チンパンジーの政治学』と題した著書で、オランダのチンパンジーのコロニー内で起こるステイタス争いを長々と描写している。オスのチンパンジーは連帯を組み、互いに企み、裏切り、コロニー内の順位が仲間に認められたり認められなかったりすると、誇りや怒りに似た感情を覚える。

↓因みに「つつきの順位」byウィキペディア
個体間に強弱の差があって、それが確認された後には、両個体が出会ったとき、互いに違う行動を取るような場合、これを順位という。ニワトリの場合、互いにつつき合うことで強弱がわかると、強い方が弱い方をつつき、弱い方はつつき返さない。すべての個体の間に、どちらがどちらをつつくかが決まっていて、全体ではほぼ一列の順番ができる。一番弱い個体は、全員からつつかれるわけである。これをつつきの順位と呼ぶ。

と、前著から繰り返し、人間の政治的習性は本能的な物だとしている
そして本書ではそれを踏まえ、しかしその本能を揺るがすたいへんな物がちまたに出回っている
と警告を発している

重要なのは、承認されたいという欲求に生物学的基盤があり、その基盤が脳内のセロトニンレヴェルに関係するということだ。階層の最も下位にいるサルはセロトニンレヴェルが低いが、反対にオスの中でアルファ(訳注:集団の中でリーダーシップをとる個体のこと。その権力は絶対である)の地位を獲得すると、高揚感を覚える。
 したがって、プロザックのような薬が非常に政治的な重要性をおびてくる。(略)ステイタスは努力してようやく獲得できるものなのだ。自尊心の欠如を克服するための、まともで、道徳的に受け入れられる方法は、自分と闘い、他人と闘い、仕事を頑張り、時にはつらい犠牲に耐えた末に階段を上って、業績を認めてもらう、というものだ。問題は、アメリカの大衆心理学で理解されるように、自尊心が一つの資格となり、それに値するか否かはともかく、誰にとってもなければならないものになってしまってしまうことである、結果として自尊心が傷つけられ、自尊心を求める努力も自虐的になる。
 しかし今や、アメリカ製薬業界の登場である。ゾロフトやプロザックのような薬は、脳内セロトニンレヴェルを高め、“壜入りの自尊心”を供給してくれる。ピーター・クレイマーが書いたように、人格を操作する可能性があるとすると、ここで興味深い疑問が生じる。人間の歴史におけるこの闘いは、脳内セロトニンが多ければ、すべて防げただろうか?シーザーやナポレオンは適宜プロザックを服用できたとして、ヨーロッパを征服したいと欲しただろうか?世界の歴史はどうなっていただろう。
 世界には、本来持っていていいはずの自尊心が大いに欠ける人たちが数百万人もいる。彼らにとっては、プロザックと関連薬は神からの贈り物だった。しかし、セロトニンレヴェルが低いとしても、それは病気とはいえない。プロザックは、クレイーマーのいう美容薬理学の道を開く。つまり薬の服用は、治療のためにでなく、「もっと良い気分」になるためだ。もし自尊心が人間の幸福にとって不可欠なものだとしたら、もっと欲しくなって不思議はない。オルダス・ハックスリーの『素晴らしき新世界』のソーマのように、ある意味で不安を感じさせる薬が実現するかもしれない。

つまり、これが人間の終わりになる
動物化しても人間の本能は残っていたから大丈夫だと思っていたら
実は医学は薬で本能をいじれるようになってしまい
これによってとうとう人間はおわってしまったのだ!
と言っている

せっかく、頑張ってポストモダン的人間主義とも言える
脳に社交性があるから人間はまだ人間という概念が
自分の中の私的物語、つまり職場で上手くいかなかったとかいう
環境と調和できない(承認欲求は消えない)という人間の特性を薬でどうにかしてしまうという時代が来ている
ようは、凹んだら薬でスッキリ、職場でミスったらプロザックみたいなことになり
これはとてもヤバイと言っている

そもそも、現代は調和することが善であるという考え方で動いていて
実際に監視社会や薬により強引に人々を調和させようという風に世の中も動いていて
このままだと人間が終わってしまう恐れがある

という所で今回は終了
しかし、このままだと結論もないしネガティブなままなので
一体、講師の東浩紀さんが何処へ向かおうとしているのか
というのを推理してみます
一つ、大きな意味を持つと思われるのは調和するためにプロザックを飲むという話をしていたときに

職場で上手くいかなかったらプロザック飲だり、ブログで愚痴ったりしてスッキリする時代が来ている

と言っていたことで
このブログというのは薬ではなくツールで他にも考えれば自己承認を満たすものはツールとして幾つかある
その一つでとても東さん的なものはレイプファンタジーという言葉などで批判されている
ギャルゲーによって承認欲求を満たすという行為を東さん自身が肯定していることがあげられると思う

つまり、日本には凹んだらカウンセリングしてプロザックを飲むという文化はないけど
ツールとしての自己承認欲求をみたすものはかなりあるのだから
日本においても人間は終わりかけていると言っていると思われ
ようは、時代の流れによって避けられないものだと捉えていると思われる

あともう一つ重要なのは、想像力の問題
友情よりも信頼が重要でありそれはコミュニケーションでは作られないと言うことを繰り返し言っている東さんは
この他者の気持ちを考えるという想像力を単に隣人を同情することにより世の中が上手く回るとは考えていないと思われる
間違いなく、東さんの中でこの想像力はコミュニケーションのない世界においての必要なものとして捉えられていて
つまり、この同情心は見知らぬ他者に対し気を遣いシステムを上手く回すという機能を担うと考えられていると思われる

けれど、こうなるとかなり難しい。何故なら遠くの他者を思う道徳とか常識というのはそのまま大きな物語そのものだからだ
ポストモダンにそれらのものはなくなった
ということはこの同情心すらもシステムとして立ち上げると言うことになる
つまり、学校で教えるのではなく構造によって導く
もしくは教育が大事だとローティが言っていたのでそういう教育が行われるようにシステムが導く

何だかとんでもない所に考えを持って行かないといけなそうだけれども
次回に続く

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コメント

東氏が
「思想史上の『大きな物語』が終わり、
『動物化』した現在において
必要とされるべきは、他者への『想像力』である!」
と言われた瞬間、
時間が200年位逆戻りしてしまった気がした。。。

それは間違いなく必要であると思うのだけれど
し、しかし、それだけでいいのかい???

投稿: Jazz-mama | 2009年5月22日 (金) 17時43分

後藤はその想像力という考え方を
評判が悪いと知っていた上で提示したということに興味があります
当然、想像力という概念が安っぽいと思われるのは予想済みだったと思われるので
絶対に、本人の中ではひらめきがあったのだと思います

そしてやはり重要なのは友情の想像力ではなくて
信頼の想像力を求めていると言うところです

そこが何かキーになっている気がします

投稿: 後藤ゆたか | 2009年5月23日 (土) 00時49分

東さんが何を人間的だと見なしているのかがちょっと分かりづらいですね。


人間の持つ社交性(とそれに伴い差異を生み出すことで承認を得ようとする衝動)はヘーゲルが言うほど人間に固有のものでない、という言い分が後藤さんのまとめでは流産しているように思えるのですが、どうなんでしょう。


中編では、人間性とは環境(「世界」という語を使われてました?)や自然にあぶれる形で発露されるものだ、みたいなまとめ方をされていたと思いますが、それに則れば「私的物語と公的非物語」(いわゆる「理想と現実」みたいな対比が素朴には当てはまるのかな。現実の方が物語だと思われずに環境だと感じられる、という点は見過ごせませんけど)の乖離が疑似人間的だと見なして「ポストモダン人間主義」なんて言葉を当てているんでしょうか?

そしてそのような乖離を体現するリベラルアイロニストにとっては友情ではなく、信頼を成り立たせる/の基盤ともなる想像力が大事だと?

しかし以前の議論を読むにつけ、信頼とは数学的でデータベース的蓄積の中から生じるものだともおっしゃっている。コミュニケーションを基盤せず友的でない想像力とは何なのかがいまいち分からんのですが、例えばニコ動のタグって再生数が多いやつの方が的を射ているな、とかそんなこと?

投稿: ひろさわ | 2009年5月24日 (日) 09時01分

どうも今回は量が多くなってしまい
分かりづらい内容になっているようで申し訳ないです
音源によるまとめではなく筆記によるまとめなので正確さが書けていることはいなめません
ここら辺は後藤の知性の限界と時間の関係であります

>何を人間的だと見なしているのか
今回の講義での人間の定義は

(カール・シュミットの友と敵の)政治
=(コジェーブの環境との)闘争
をしているのが人間で
環境と調和しているのが動物(=エステルのような現代人)というのが基準にあるのですが
F・フクヤマは動物化したと言われている人間にも結構人間性があった
(本来社交性があり、それにより他者との友と敵、環境との闘争があった)
ということを言っています
(そしてその後、薬によって人間が終わっていくと・・・)

>信頼を成り立たせる/の基盤ともなる想像力
これはそうではなくて、信頼は断片的データベースなので
想像力は別のものと考えるべきだと思います
言うなれば、想像力は公共性を生み出す物という事でしょうか
信頼は信頼すべきデータであり
想像力は見知らぬ人の事=自分以外の環境もふまえて考えられる想像力

>例えばニコ動のタグって再生数が多いやつの方が的を射ているな、とか
なので再生数が信頼すべきデータで
コメントをするという事が相手のことを考えている想像力という事になると思います
(この動画手間がかかってるなぁ、GJとコメント。みたいな感じで)

投稿: 後藤ゆたか | 2009年5月24日 (日) 09時35分

うむむ。では後藤さんがコメントで述べている

>信頼の想像力

とは何なんでしょうか?

それから

>コメントをするという事が相手のことを考えている想像力という事になる

これは「コメントをする」ということはコミュニケーションではない、ということですか?

「GJ」や「乙」といった言葉には、想像力しかなくてコミュニケーションの端緒にはなりえないってことでしょうかね。

投稿: ひろさわ | 2009年5月24日 (日) 10時56分

この話は長くなるので、出来れば今度あったときということにして
とりあえず、簡単に書けることだけかきますと
ニコニコ動画のコメントは発信者の一方的なコミュニケーションなので
普通のコミュニケーションとは違うと後藤は考えています

>想像力しかなくてコミュニケーションの端緒にはなりえない
ここは想像力によってコメントがなされている特殊なコミュニケーションの例ではないかと思います
(GJや乙には相手と自分のコミュニケーションを図ると言うより、次の作品作れ!という命令的な意味もある気がしますので)

投稿: 後藤ゆたか | 2009年5月24日 (日) 14時30分

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