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2009年7月 2日 (木)

雑記、古典とSFの話

横光利一の短編、「春は馬車に乗って」を読む
少し前、プロレタリア文学もどき作ったとき横光氏の「機械」を参考に作ったと言うのがあって
改めて読むために手に取ったけれど、この美しさは何なのだろう
苦しみは目の前に存在し、そして目の前の苦しみが自分の辛さよりも激しいだけに
主人公の鈍感さは増していく、そして死した妻を見たくないと、それまでは自分の中で生きているのだから
という言葉を実現するかのように作品中では死を書かない
その前に作品は季節の移り変わり、つまり留まらない時間(=病魔)を切に感じながら幕を閉じる
今一度、日本の古典は素晴らしいものが沢山あるということを再認識した
古典の中には自分と肌が合わないものもあるけれど
それはそれとして、そういうものは無視すれば良く
自分の好きなもので日本文学を理解しようとした方が研究するのでは無いならば
一番実があり、楽しい方法だと思う
(まさに消費者的な物事のとらえ方だけれど)

最近、少しだけSFに興味がわいてきたので軽く調べていると
伊藤計劃という人の死を嘆くコメントが多方面にあり、何者なのだろうと
超弦領域というオムニバス本に収録されている中編を読んで驚く
まず文章力が凄い、そして格好いい
その上、テーマが複雑にもかかわらずまとまりがあり味わい深く
特にこの作品のテーマが意識という問題を扱っていたので個人的にヒットしたというのもあるけれど
このクオリティはSFファンたちがその死を惜しむのもよく分かるという内容だった
それにしても、SFファンの人のその熱は何だか健康的なオタクみたいでとてもすがすがしい
自分たちが良いと思った物を徹底的に愛でて、そして次々と現れる大量のSF作品の登場に喜んだり悲しんだり、たまにマジでむかついたりする
SFファンの人たちはジャンルなどは簡単に飛び越えてしまう様も面白い
文章だろうが映像だろうが文学作品だろうが
自分がSFだと思った物は誰が何と言おうとSFと言ってしまうという姿勢は
何だか目から鱗
自分は文学というものがどういうジャンルかよく理解できていないのに
この人たちは自分たちのSF感を揺るぎなく持っていて
そして仲間とぶつけ合ったりしている
中々にうらやましい光景

文学と文学じゃない物の境目ってとても難しく
一つは簡単に権威で、誰かがそう言ったからで決めるのが楽なのだけど
そうではなく自分の基準を作ろうとした場合
何をどうして良いのか分からなくなってしまう
何が難しいって何故これが文学じゃないのかという事を理論づけるのが難しい
結果としてこれって少し文学要素入ってる気がするという結論になるしかないくらい
ファジー(死語)というか量子力学的な%の存在感というかで難しい

雑記が長くなるけれど
伊藤プロジェクトさんには是非、文芸誌で何かを書いて欲しかったと思った
この人なら絶対びっくりするものを書いただろうに
とりあえず、この中編の書き出しをほんの少しだけ書かせていただくけれど

 例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテクストだ。

 私は以下の記述を生み出すよう育てられたアルゴリズムだ。凡百のソフトウェアに比べれば恐ろしく複雑ではあるが、そう機能するよう記述された存在であることに変わりはない。書物を生み出す書物。(以下は本を読んでください)

格好良すぎる!

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